第23話 沈黙の終わり
午後の契約裁判所大審理室には、朝の戴冠広場からそのまま移ってきた者が多かった。
四大公爵家。
契約裁判官。
新聞記者。
そして王妃ヴァレリア。
被告席には、レオンハルトがいる。
最終審理。
今日、反逆契約が真正と認定されれば、そのまま死刑が執行される。
リーゼロッテは傍聴席の最前列で、封印された四つの証拠を見た。
王妃が提出した反逆契約。
三年前のグラーツ公爵家の当事者控え。
契約裁判所の登録控え。
王国契約石の登録照合記録。
反逆契約の最初の公開審理で、全部を同時に保全したものだ。
「照合を始めます」
裁判所長が宣言した。
まず、王妃提出の反逆契約。
登録番号が読み上げられる。
次に三年前の当事者控え。
同じ番号。
王妃側法務官が立つ。
「番号が同じこと自体は争いません。問題は、どちらの文書が真正かです」
「そのための登録控えです」
裁判所書記官が、中央保管庫から運ばれた文書を開いた。
『国境防備物資契約』
契約日。
三年前。
当事者。
グラーツ公爵家。
国境防備物資商会。
契約種別。
軍需物資供給。
内容は、弩弓部品、冬用外套、馬具、乾燥食料。
グラーツ公爵家の当事者控えと一致している。
「王国契約石の照合記録を」
担当官が登録番号を呼び出した。
石の表面へ文字が浮かぶ。
登録日。
当事者。
契約種別。
照合紋。
全て、裁判所控えと一致した。
「では、王妃殿下提出文書を」
反逆契約が照合面へ置かれる。
同じ登録番号。
だが本文は違う。
『北境銀鉱山および周辺警備路の恒久使用権を外国へ譲渡する』
石に表示された登録種別は変わらない。
『軍需物資供給』
審理室が静まり返った。
リーゼロッテの視界には、反逆契約へ赤い亀裂が走っている。
けれど、もうその色を説明する必要はない。
誰にでも見える記録がある。
「王妃側から反論は」
裁判所長が尋ねた。
法務官の声は硬かった。
「登録番号だけが流用された可能性があります」
「それなら、この文書は登録契約ではありません」
リーゼロッテは思わず言った。
裁判所長が彼女を見る。
発言を許すように頷いた。
「王妃殿下側は、最初の公開審理で『本人の署名と公爵印がある登録契約だから反逆罪が成立する』と主張しました。ですが、その登録番号は三年前の物資契約へ発行されたものです」
「署名と印章は本物でしょう」
「だからこそ、別文面へ転用されたのです」
レオンハルトが三年前に署名した真正な契約。
その署名と公爵印。
真正な登録番号。
それらだけを使って、本文を鉱山譲渡へ置き換えた。
王国契約石は、その文書を『外国への鉱山譲渡契約』として登録した記録を持っていない。
裁判所長が判定を読み上げた。
「王妃提出文書は、真正な登録情報および署名・印章を、登録されていない別本文へ転用した偽造文書と認定します」
リーゼロッテは息を止めた。
「戦時反逆罪の根拠となる登録契約は成立しません。死刑執行を停止。グラーツ公爵の反逆容疑による拘束を解除します」
音が消えたように感じた。
執行官がレオンハルトの拘束具を外す。
一つ。
もう一つ。
彼が自由になった。
リーゼロッテは立ち上がりかけて、止まった。
まだ終わっていない。
「次に、沈黙の誓約の強制力暫定停止申立てを審理します」
北境の忠誠誓約を全件切り替えたあとに提出した申立て。
全現行村。
全部隊。
領主個人への辺境忠誠誓約を終了し、領地法への市民誓約へ切り替えた。
裁判所長が最終確認記録を読む。
「連帯責任条項の参照先となる現行辺境忠誠誓約は、ゼロ」
次。
「忠誠誓約へ記載された『国境保全誓約連結番号』は、本来の国境保全誓約登録番号と一致しない」
次。
「当該連結番号は、十年前の分類履歴上『沈黙の誓約』として登録された契約を、後に『国境保全誓約』へ再分類したもの」
レオンハルトの首元。
薄くなった黒い紋が見える。
「連帯責任の対象契約が全て終了し、登録分類にも重大な適法性疑義がある。正式無効判決まで、沈黙の誓約の強制力を暫定停止します」
裁判所長が木槌を打った。
「発声制限、および情報開示時の連帯責任条項を停止」
リーゼロッテはレオンハルトを見る。
黒い紋が薄れる。
さらに。
消えたわけではない。
けれど、喉を締めつけていた力が抜けたように見えた。
レオンハルトが喉へ手を当てる。
息を吸う。
十年間、声を出せなかった人が。
口を開く。
「……聞こえるか」
低い声だった。
掠れていた。
それでも確かに、声だった。
リーゼロッテの目が熱くなる。
「はい」
それしか言えなかった。
レオンハルトは一度目を閉じた。
そして、被告席だった場所から証言席へ移る。
「十年前のことを証言します」
もう筆記板は要らない。
「エレオノーラ・エーヴァルトから、王国統治誓約の登録内容が原本と一致しないと知らされました」
審理室が静まる。
「彼女は法的原本を王宮から退避させた。私はその運搬と隠匿を助けました」
「場所は旧地下墓所ですか」
「そうです」
「なぜ十年間、証言しなかったのです」
レオンハルトの声が少し詰まる。
それでも続ける。
「原本を隠した後、王妃の使者が北境へ来ました」
ヴァレリアの顔は動かない。
「『原本の場所を明かさなければ、北境全体を反逆領として処罰する』と告げられた」
ざわめき。
「私は十七歳で、公爵位を継いだばかりでした。拒めば、村も兵も巻き込まれる」
彼の手が一度、握られる。
「だから沈黙の誓約へ署名しました」
「強制されたと?」
「選択肢はありました」
レオンハルトは静かに答えた。
「原本の場所を渡すか。北境を危険に晒すか。沈黙するか。その三つです」
リーゼロッテの胸が痛む。
「私は沈黙を選んだ。それで十年間、エレオノーラの調査内容も、原本の場所も、王妃側の契約違法行為も第三者へ伝えられなかった」
裁判所長が尋ねる。
「エレオノーラの死亡について、知っていることは」
「殺害命令を見たわけではありません」
ここでも、線を越えない。
「事故の直後、北境へ戻る王妃直属護衛の馬車について、軍門通過記録を見ました」
オスカーが立った。
「その記録を提出します」
十年前の軍門通過簿。
保管されていた原簿と、認証写し。
事故が起きた雪道から王都へ戻る経路。
時刻。
王妃直属護衛の馬車一台。
通常の巡回命令番号は空欄。
「この記録だけで、事故を起こしたと断定はできません」
オスカーが言った。
「しかし、王妃直属護衛が事故現場周辺から戻ったことは確認できます」
次にノエルが証言席へ進んだ。
「エレオノーラ様から預かった手紙があります」
古い封筒。
十年前の日付。
そこには、法的原本を退避させたこと。
登録変更申請の承認記録が見つからないこと。
自分に何かあれば、原本と王国契約石の照合を行うよう求める文があった。
殺害者の名はない。
だが、母が事故前に偽造疑惑を追っていたことを、当時の文書が裏づけた。
レオンハルトの証言。
オスカーの軍門記録。
ノエルの手紙。
今朝の戴冠広場で確認した契約石の照合不一致。
反逆契約の審理時に保全した登録欠落記録。
それぞれ単独では、母の殺害を確定しない。
しかし同じ方向を指している。
裁判所長が言った。
「エレオノーラ死亡事件について、王妃直属護衛の関与および記録隠匿の重大な嫌疑が成立します。殺害の最終有罪認定は、別途正式審理で行います」
リーゼロッテは目を閉じた。
母の死まで、今ここで都合よく一つにしなかった。
それでいい。
「同時に」
裁判所長は続ける。
「摂政権限の違法拡張、王国統治誓約の登録記録隠匿、強制契約の濫用については、既に客観記録が存在します」
緊急審理へ移る。
王国統治誓約の条文。
摂政が統治誓約を改竄した重大な疑い。
摂政権限を越える王位継承への介入。
契約石の照合不一致。
条件は揃っている。
「摂政権暫定停止には、契約裁判所長と四大公爵家二家以上の連署が必要です」
現在のエーヴァルト公爵が立った。
リーゼロッテの親族としてではない。
北境との迂回輸送契約を結んだ一領主として、朝から証拠を見ていた。
「契約石の照合不一致、保全済み登録記録、今日の証言を確認しました」
署名する。
続いて、西隣の公爵家当主。
「同じく確認した」
二つ目の署名。
裁判所長が最後に署名した。
「要件成立」
ヴァレリアが立ち上がる。
「私を止めれば、誰が国を動かすのです」
「原本に規定があります」
裁判所長が答えた。
「摂政権暫定停止命令を発効します」
同時に、王都守備隊と王宮警備隊の統治上の指揮権が、契約裁判所の執行命令へ一時移管される。
広場と裁判所周辺にいた守備隊が門を閉じた。
彼らの服務誓約は王妃個人ではなく、王国法に向いている。
契約裁判所直属の執行官がヴァレリアへ進む。
「王妃殿下。正式審理まで、身柄を保全します」
ヴァレリアは逃げなかった。
ただ、リーゼロッテを見た。
「これが、あなたの選んだ平和ですか」
「いいえ」
リーゼロッテは答えた。
「誰か一人が選ばないための手続きです」
ヴァレリアの身柄が執行官へ移る。
そこでユリウスが立った。
「私は、王太子位を放棄しない」
場がざわめく。
「ですが、父上が存命のまま、偽造された摂政権限を根拠に作られた統治不能認定と生前譲位を受け入れません」
母ではなく、裁判官たちを見る。
「戴冠を延期します。父上の統治能力と将来の生前譲位は、原本どおりの手続きで改めて審査してください」
十年前から黙ってきた王太子が、初めて自分の地位を危険に晒す側を選んだ。
ただし、王位を投げ捨てるのではない。
国を空白にもさせない。
国王は療養中。
摂政権は停止。
そこで四大公爵家のうち三家以上と契約裁判所長が、原本の緊急条項へ署名する。
『暫定摂政評議会』
日常行政のみを代行する。
新たな王位継承。
恒久的な領土処分。
王族婚姻の最終決定。
それらはできない。
国家の空白を埋めるためだけの評議会。
最後の署名が終わったとき、審理室の空気が少し変わった。
王妃の命令が止まっても、国は止まらない。
リーゼロッテはレオンハルトを見る。
彼はもう被告席にいない。
声もある。
拘置所で交わした約束を思い出す。
あなたを救えたら、その続きを声で聞きたい。
けれど、今は聞かなかった。
まだ、二人の婚姻そのものに残った問題がある。
レオンハルトも分かっているように、証言を終えたあとも余計な言葉は口にしなかった。
十年の沈黙は終わった。
次に二人のために選ぶ言葉だけは、誰にも強制されない場所で聞きたかった。




