第24話 命令ではない結婚
王妃ヴァレリアの摂政権が停止されてから、三か月が過ぎた。
北境にも、遅い春が来ていた。
雪解け水が街路脇を流れ、市場には冬のあいだ姿を消していた花売りが戻っている。
その少し前。
リーゼロッテとレオンハルトは、契約裁判所北境支部の小さな審理室に並んで座っていた。
「確認します」
裁判官が二人を見る。
「現在の婚姻契約は、リーゼロッテ・エーヴァルトへの反逆容疑と身柄拘束が切迫した状況で、貴族身柄引受を目的として締結されたものです」
「はい」
リーゼロッテが答える。
レオンハルトも声で答えた。
「はい」
それだけのことに、まだ少しだけ胸が揺れる。
もう筆記板はいらない。
正式審理の結果、十年前の沈黙の誓約は、強制下で締結されたことに加え、国境保全誓約として虚偽の分類登録をされ、無関係な辺境忠誠誓約を連帯責任へ組み込んでいたことから無効とされた。
発声制限は完全に解除された。
ヴァレリアについては、摂政権限の違法拡張、登録記録の改変、強制契約の濫用について正式審理が続いている。
エレオノーラの事故についても、王妃直属護衛の移動記録と隠された報告書を基に別件として調査が続いている。
契約改変があったから殺害も確定する、とはしない。
最後まで、そこだけは分けた。
「現在の婚姻契約自体が直ちに無効というわけではありません」
裁判官が続ける。
「ただし、締結時の自由意思が十分だったか、再確認が必要です」
リーゼロッテは机の上の契約書を見る。
あの夜。
婚約破棄。
反逆容疑。
王宮から逃れるための身柄引受。
レオンハルトは、自分を救うために結婚を申し出た。
リーゼロッテも、限られた選択肢の中から北境へ行くことを選んだ。
あれは、自分で選んだ。
けれど。
自由だったかと問われれば、違う。
「どうしますか」
裁判官が尋ねる。
リーゼロッテはレオンハルトを見る。
彼もこちらを見ていた。
「一度、解除します」
先に言ったのはリーゼロッテだった。
レオンハルトが頷く。
「私も同意します」
声は落ち着いている。
止めない。
引き留めない。
リーゼロッテは少しだけ寂しいと思った。
でも、それでいい。
今ここで「続けたい」と言わせることさえ、過去の契約に引かれた選択かもしれない。
まず、何もないところへ戻る。
「では、双方の合意による婚姻契約解除として受理します」
裁判官が二人の署名を確認した。
契約は終わった。
その瞬間から。
リーゼロッテに、北境へ残る義務はない。
レオンハルトにも、彼女を引き留める権利はない。
母から受け継いだ持参財産と信託財産がある。王都へ戻って一人で暮らすこともできる。現在のエーヴァルト公爵家へ身を寄せる必要もない。
北境を離れるなら、自分で行き先を決められる。
その事実を一つずつ確かめると、不思議なほど心が軽くなった。
誰かの妻でなくなったから自由なのではない。最初から、自分の人生を選ぶ権利は自分にあったのだ。
そのうえで、どこへ行くかを選び直せる。
審理室を出る。
外の廊下で、レオンハルトが言った。
「荷物を運ばせようか」
「どこへ?」
「王都でも、エーヴァルト領でも。君が行きたい場所へ」
「北境に置いておいてください」
彼が足を止める。
「しばらくは」
リーゼロッテは付け加えた。
「相談所の開設がまだ終わっていませんから」
北境で準備してきた、新しい契約相談所。
貴族だけではない。
商人も。
鉱山労働者も。
農民も。
身分を問わず、契約書を無料で確認できる場所。
読み書きが苦手な者には条文を読み上げる。
本人が望めば、契約裁判所への照会書も一緒に作る。
誓印視を持つリーゼロッテが全部を見るのではない。
法務官。
書記。
商人組合から派遣された会計担当。
教会の相談員。
複数の人間が、同じ記録を確認できる仕組みにした。
「私一人の目を制度にしないための相談所です」
開設準備の会議で、リーゼロッテはそう説明した。
誓印視は便利だ。
だからこそ、それだけに頼らない。
契約書を読むこと。
写しを残すこと。
登録を照合すること。
当事者本人に説明すること。
その積み重ねで、人が自分の契約を選べるようにする。
春の市場が開く日。
相談所も正式に扉を開けた。
最初の相談者は、年配の女性だった。
息子夫婦と同居するため、自宅を譲る契約を結びたいという。
「全部渡したら、私はここに住み続けられるの?」
相談員が条文を一緒に読む。
「今の草案では、居住権が書かれていません」
「じゃあ、書いてもらえる?」
「もちろんです」
それだけ。
誰かを倒すための大事件ではない。
でも、リーゼロッテはそのやり取りを見ながら、これが欲しかったのだと思った。
契約に縛られたあとで救うのではない。
署名する前に、自分で選べるようにする。
次に来たのは、軍を退いたばかりの男だった。
商人から倉庫番の仕事を持ちかけられたが、契約書には「雇用主が必要と認めた場合、任地を変更できる」とある。
「これ、王都へ行けと言われても断れないのか」
相談員が条文を指す。
「今のままなら、そう読めます。勤務地を北境内に限定したいなら、署名前に直せます」
「じゃあ直してくれ。母親を一人にできない」
「分かりました」
男は礼を言い、修正文案を持って帰った。
契約は、人を従わせるためだけの紙ではない。
断る条件を残すことも、戻れる道を書くこともできる。
リーゼロッテはそれを一人ずつ確かめられる場所にしたかった。
昼を過ぎるころ、ミーナが相談所へ顔を出した。
「お嬢様」
「もう公爵夫人ではないわ」
「あ」
ミーナが口を押さえる。
「では、リーゼロッテ様」
「それでお願いします」
少し寂しそうに見えたので、リーゼロッテは笑った。
「呼び方が変わっても、あなたとの契約は変わらないでしょう」
「侍女契約、まだ継続ですからね」
「辞めたいときは言ってください」
「今のところ予定はありません」
即答だった。
午後。
市場の鐘が鳴った。
相談所の前へ出ると、人の流れの向こうにレオンハルトがいた。
公爵としての正装ではない。
濃い灰色の外套。
護衛も少し離れている。
「何をしているのです」
「買い物」
「公爵が?」
「市場へ来たら買い物をするだろう」
以前より言葉が増えた。
けれど、饒舌ではない。
十年黙っていたからではなく、もともとこういう人なのだと、最近ようやく分かってきた。
「何を買うのですか」
「これから決める」
リーゼロッテは眉を上げた。
「計画性がありませんね」
「たまには」
二人で市場を歩く。
夫婦ではない。
公爵と公爵夫人でもない。
だから、並んで歩く理由は何もない。
それでも、レオンハルトは隣にいる。
花屋の前で、彼が止まった。
白い小さな春花。
「少し、いいか」
リーゼロッテが振り向く。
「何でしょう」
レオンハルトは花ではなく、内ポケットから折り畳んだ紙を出した。
「読んでほしい」
婚姻契約書。
新しい草案だった。
リーゼロッテはその場では読まなかった。
「相談所があります」
「そこまで行くのか」
「契約は机で読みます」
相談所へ戻る。
レオンハルトは黙って付いてきた。
机に座り、草案を開く。
財産は各自管理。
居室選択の自由。
侍従・侍女の雇用権。
公爵領の行政職務を妻へ当然には負わせない。
王都滞在、北境滞在、旅行について双方が協議する。
一方が契約解除を求めた場合の手続き。
最初の婚姻契約より、ずっと細かい。
「勉強しましたね」
「三か月かかった」
「三か月?」
「今日まで待った理由の半分」
「残り半分は?」
レオンハルトは少し迷った。
そして、普通の声で言った。
「君が、残る義務のない状態になるまで待ちたかった」
リーゼロッテの手が止まる。
「北境に残ってほしい」
命令ではない。
「私の妻になってほしい」
保護条件でもない。
「今度は、君が断っても何も失わないところで言いたかった」
拘置所で交わした約束。
『君との結婚だけは、王妃の命令でも義務でもなかった』
その続きを。
ようやく声で聞いた。
リーゼロッテはすぐには答えなかった。
草案へ目を戻す。
一条ずつ読む。
レオンハルトも急かさない。
最後まで読み終える。
「一つ、足りません」
「何が」
リーゼロッテはペンを取った。
余白へ一文を書き加える。
『双方は意見を述べる権利を持ち、沈黙を強制されない』
レオンハルトが読む。
「必要か」
「必要です」
「私はもう話せる」
「話せることと、話していいことは別でしょう」
リーゼロッテは彼を見る。
「私も黙らされません。あなたも黙らせません」
レオンハルトの口元が少し緩んだ。
「分かった」
「では」
リーゼロッテは契約書を彼の側へ戻す。
「この修正を受け入れますか」
「受け入れる」
「私も」
署名する。
レオンハルトも署名する。
誓印視に見えたのは、銀色だけだった。
黒い歪みも。
赤い亀裂もない。
だから正しい契約だ、と決めるつもりはない。
けれど今、この瞬間に二人が書かれた内容を理解して、自分で選んだことだけは分かる。
それで十分だった。
正しさを誰か一人の目へ預けるのではなく、二人で読み、問い、直し、選んだ。その手順そのものが、今の二人には何より大切だった。
相談所を出る。
春の市場はまだ賑わっている。
焼き菓子の匂い。
荷車の音。
値段を交渉する声。
子供たちの笑い声。
誰も二人へ命令しない。
誰も二人の代わりに答えを決めない。
リーゼロッテは人混みの中を少し先へ歩いた。
背後から、声がする。
「リーゼロッテ」
十年前に奪われた声。
けれど今は、誰かの秘密を守る条件でも、命令に従うための言葉でもない。
ただ、自分を呼ぶ声だった。
リーゼロッテは振り返った。




