第22話 偽りの戴冠式
最終審理と処刑予定日の朝。
夜が明ける前から、戴冠広場には人が集まり始めていた。
四大公爵家の使節と当主。
契約裁判官。
王立聖堂の司祭たち。
新聞記者。
商人組合の代表。
広場中央には、王国契約石が据えられている。
王家と四大公爵家の重要契約を登録するとき、公衆の前で登録番号と照合結果を示すための石だ。
リーゼロッテは広場の端で、厚い外套の内側へ手を入れた。
前夜のうちに提出した二通の申立書の控えがある。
『戴冠契約執行停止申立て』
『王国統治誓約法的原本・緊急照合申立て』
受付時刻。
受領番号。
どちらにも契約裁判所の印がある。
前夜の申立てには、急ぐ理由も書いた。
国王は存命。
それでも生前譲位が一度登録され、戴冠契約まで契約石へ載れば、その後に無効を争う間も新王名義の命令が積み重なる。
だから「あとで取り消せばいい」では遅い。
先行する王国統治誓約の真贋が争われている以上、後続の戴冠契約を登録する前に、どの条文を根拠に進めるのか公開照合させる。
それが昨夜、契約裁判所へ求めたことだった。
広場には、現在のエーヴァルト公爵の姿もある。
北境との迂回輸送契約を結んだ西隣の公爵家も。
味方として来たわけではない。
四大公爵家として、王位に関わる契約がどう処理されるかを見るためだ。
リーゼロッテには、その距離のある立場のほうがありがたかった。
自分を信じるからではなく、記録を見て判断してほしい。
「間に合いましたね」
ミーナが言う。
「申立ては、です」
リーゼロッテは広場正面を見る。
「止まるかどうかは、これからです」
レオンハルトはここにいない。
午後には戦時反逆罪の最終審理が予定されている。
今も拘置所の中だ。
沈黙の誓約の強制力暫定停止についても、最終決定はまだ出ていない。
朝の鐘が鳴った。
王妃ヴァレリアが壇上へ上がる。
その隣にユリウス。
王冠はまだ載せられていない。
「国王陛下は長期にわたり政務を執ることができず、回復の見込みもない」
王妃の声が広場へ響く。
「本日、王国の統治空白を避けるため、恒久的統治不能を認定します」
書記官が一通目の文書を掲げる。
『国王統治不能認定』
続いて二通目。
『生前譲位承認契約』
三通目。
『王太子ユリウス戴冠契約』
ヴァレリアが北境へ持ち込んだものと同じ種類の文書だった。
「国王陛下の権能は、王太子ユリウスへ移される」
ざわめきが起きる。
リーゼロッテは壇上ではなく、契約裁判所長を見た。
裁判所長の手元には、昨夜の申立書がある。
王妃も気づいているはずだ。
それでも式は進む。
ユリウスの前へ王冠が運ばれた。
司祭が祝祷の準備をする。
王妃側の書記官が戴冠契約を持ち、王国契約石へ歩み寄った。
登録の直前。
「停止してください」
契約裁判所長の声が響いた。
足が止まる。
広場が静まり返る。
「何の権限で式を止めるのです」
ヴァレリアが尋ねた。
「戴冠そのものではありません。王国契約石への登録手続きです」
裁判所長は申立書を掲げた。
「係争中の先行契約について、執行停止および緊急照合の異議が受理されています。重要契約の登録直前には、その異議を公開して処理しなければならない」
「原本の真贋審理は終わっていません」
「だから照合します」
短い返答だった。
王妃の目が細くなる。
「申立人を」
裁判所長が呼ぶ。
「王国統治誓約の原本提出者、リーゼロッテ・グラーツ公爵夫人。証拠説明人として前へ」
王妃が彼女を認証者に選んだのではない。
契約裁判所が、提出済み証拠の説明人として呼んだのだ。
リーゼロッテは壇上へ上がった。
視線が集まる。
婚約を破棄されたあの夜会を思い出す。
あのときも、同じように大勢の前へ立たされた。
違うのは、今は自分が何を示すべきか分かっていることだった。
「証拠を」
裁判所執行官が封印箱を運ぶ。
旧地下墓所から回収し、その日のうちに契約裁判所へ預けた箱。
発見場所。
時刻。
発見者三名。
開封前の封状態。
すべて記録済みだ。
裁判所長が証拠封を確認してから開ける。
最初に、王国統治誓約の法的原本。
次に、エレオノーラの照合記録。
さらに、反逆契約の公開審理中に現地封印され、その後裁判所の手で認証写しを作成した十年前の索引台帳と登録控え。
「説明してください」
リーゼロッテは原本を開いた。
「法的原本では、摂政は通常行政を代行できます。しかし、王位継承、王族婚姻、領土譲渡、四大公爵家への重大処分を単独では決定できません」
広場の貴族たちがざわつく。
「国王陛下が存命のまま統治不能とされ、生前譲位や戴冠を行う場合も、王室医師だけでは足りません。四大公爵家のうち三家と、契約裁判所長の承認が必要です」
ヴァレリアが言う。
「その紙が本物なら、でしょう」
「はい」
リーゼロッテは否定しなかった。
「だから、私の目だけでは決めません」
原本の末尾を示す。
「ここに、登録時の照合番号があります」
裁判所長が番号を読み上げる。
王国契約石の担当官が、原本を石の照合面へ置いた。
石の表面に王家紋が浮かぶ。
一つ。
続いて、現在登録されている王妃側の王国統治誓約を呼び出す。
二つ目の王家紋が現れた。
本来なら重なるはずの紋が、わずかにずれて二重になった。
広場の誰からも見える。
その下へ文字が浮かぶ。
『照合不一致』
ざわめきが爆発した。
商人代表の列からも声が漏れた。
「同じ登録なのに、紋が重ならない……」
新聞記者たちは、石に浮かぶ文字をそのまま書き取っている。
貴族だけの密室ではない。
王妃が「見間違いだ」と言って消せる光景ではなかった。
リーゼロッテはそこで初めて、胸の奥にあった緊張を少しだけ解いた。
婚約を破棄されたあの夜会では、自分にしか見えない赤い亀裂を説明しても、誰にも証拠として渡せなかった。
今は違う。
同じ不一致を、広場にいる全員が見ている。
リーゼロッテの誓印視にも、王妃側の文面へ赤い亀裂が走る。
けれど、彼女はそれを口にしなかった。
今ここで必要なのは、自分にしか見えない色ではない。
「承認欄も表示してください」
担当官が操作する。
原本側。
契約裁判所長の承認印。
四大公爵家の承認印。
登録時の照合紋。
現在登録版。
摂政府の処理番号。
その先が欠けている。
重要変更に必要な裁判所長と三公爵家の承認印がない。
「反逆契約の審理時に保全した十年前の登録記録を」
裁判所の書記官が認証写しを掲げた。
索引番号。
四一二七。
四一二八。
空白。
四一三〇。
四一二九に当たる登録変更申請が抜けている。
「この欠番は、私が後から作ったものではありません」
リーゼロッテは言った。
「反逆契約の審理で契約裁判所が王宮文書庫を現地封印し、執行官立会いで保全した時点から存在しています」
続いて登録控え。
王国統治誓約の再認証だけ、必要承認番号がない。
前後の同格重要契約には残っている。
「エレオノーラの照合記録は?」
裁判所長が訊く。
リーゼロッテは母の小冊子を開く。
「十年前、原本と新認証写しを比較した記録です。摂政による通常行政委任は一致。一方、王位継承、王族婚姻、四大公爵家処分、領土譲渡、生前譲位に関する制限が新認証写しでは欠落していると記録されています」
「私人の記録にすぎない」
王妃側の法務官が言った。
「そのとおりです」
リーゼロッテは答えた。
「この小冊子だけなら、母がそう書いたという証拠です」
法務官が一瞬黙る。
「ですが、母の記録内容は、今ここで王国契約石が示した照合不一致と、反逆契約の審理時に裁判所自身が保全した承認欠落記録に一致しています」
一つだけではない。
原本。
契約石。
保全済み登録記録。
三つが同じ異常を指している。
裁判所長が王妃を見る。
「現時点で、現在登録されている王国統治誓約を根拠とした生前譲位・戴冠契約の登録は認められません」
広場が揺れた。
「戴冠契約執行停止を暫定的に認めます」
王冠を持っていた司祭の手が止まる。
ユリウスは壇上で動かなかった。
ヴァレリアだけが、石に浮かぶ二重の王家紋を見ている。
「見事です」
やがて言った。
「ですが、一つ抜けています」
「何がです」
「その原本が、本当に十年前から存在した原本だという証明です」
リーゼロッテは答えなかった。
「地下墓所から見つけた。母親の記録と一致した。古い印がある。契約石も、そこに刻まれた番号を読み取った」
ヴァレリアは淡々と続ける。
「けれど、それら全てを含めて後から作られた偽物である可能性は?」
記者たちが一斉に筆を動かす。
王妃側の法務官が続けた。
「契約石が示したのは、現在登録版と提出物が一致しないという事実です。どちらが先に作られた真正な原本かまで、石だけで決めるものではない」
そこは正しかった。
王国契約石は登録の照合をする。
歴史そのものを語るわけではない。
裁判所長も否定しなかった。
「原本の由来を補強する証言と記録が必要です」
リーゼロッテは拳を握った。
十年前、その原本をエレオノーラとともに隠した人。
なぜ王宮から持ち出し、旧地下墓所へ隠したのかを知る人。
沈黙の誓約によって、十年間それを公に語れなかった人。
「レオンハルト・グラーツ公爵です」
裁判所長が言った。
「午後の戦時反逆罪最終審理で、まず彼に提出された反逆契約の真贋を確定します。そのうえで、沈黙の誓約の強制力停止申立てを判断する」
リーゼロッテの胸が強く鳴る。
「停止が認められれば」
「本人の証言を聴取します」
ヴァレリアの表情が、初めてわずかに硬くなった。
ユリウスが王冠を見る。
それから母を見る。
何も言わない。
今朝の戴冠式は止まった。
だが、レオンハルトの処刑期限は止まっていない。
午前が終わる。
午後。
同じ王国契約石の前へ、王妃が提出した反逆契約と、三年前の国境防備物資契約が並べられる。
そこで、レオンハルトの命と十年の沈黙の両方に決着がつく。




