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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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21/22

第21話 王妃の平和

 処刑予定日の前日。


 朝から降っていた雨は、夕方には細い霧へ変わっていた。


 リーゼロッテが宿舎へ戻ると、王宮から封書が届いていた。


 差出人の名はない。


 ただ、王妃府の封蝋だけが押されている。


 中には一行。


 『今夜、旧西離宮の温室へ。供は連れぬこと』


 ミーナが読み終えるなり顔をしかめた。


 「行くんですか」


 「行きます」


 「一人で?」


 「中へ入るのは一人です」


 オスカーがすぐに言った。


 「外にはいる」


 「お願いします」


 レオンハルトはまだ拘置所にいる。


 沈黙の誓約の強制力暫定停止についても、最終決定は出ていない。


 そして明日は、反逆契約の最終審理日。


 ヴァレリアが今この時点で密会を求める理由は、一つしかない。


 公の手続きでは言えないことを言うためだ。


 夜。


 旧西離宮の温室には、季節外れの白い薔薇が咲いていた。


 王妃ヴァレリアは一人で、その前に立っていた。


 「来ると思っていました」


 「来なければ?」


 「明日まで待つだけです」


 穏やかな声音。


 だが、その「明日」が何を意味するのか、二人とも分かっている。


 「レオンハルト様の処刑予定日ですね」


 「最終審理日です」


 「結果を決めた言い方はなさらないのですね」


 「私は法を尊重していますから」


 リーゼロッテは返さなかった。


 ヴァレリアが手袋を外す。


 「原本を見つけたそうですね」


 「契約裁判所へ提出済みです」


 「私邸へ隠さず?」


 「証拠ですから」


 「エレオノーラと同じところもあれば、違うところもある」


 母の名が出ても、リーゼロッテは表情を変えなかった。


 「母をご存じだったのですね」


 「よく知っていました」


 「では、十年前のことも?」


 「何を尋ねたいのです」


 問い返された。


 母の事故死。


 契約改変。


 沈黙の誓約。


 聞きたいことはいくらでもある。


 けれど、ここで答えを引き出せたとしても証拠にはならない。


 「今日は、王妃殿下が私を呼んだのでは?」


 ヴァレリアは少し笑った。


 「そうでしたね」


 彼女は白薔薇へ目を向けた。


 「私は、あなたを嫌ってはいません」


 「意外です」


 「能力がある。学ぶ。間違いを認める。何より、数字と記録を見てから判断する」


 「褒めていただいても、戴冠契約は認証しません」


 「分かっています」


 「では、何のお話ですか」


 ヴァレリアはしばらく黙った。


 温室の硝子を、霧雨が細く叩いている。


 「私が十代の頃、王位継承を巡って国が割れました」


 リーゼロッテは初めて、相手の顔を正面から見た。


 「父を失いました。兄も」


 北境で理念を語ったときより、その声は静かだった。


 「街が焼けました。昨日まで隣に住んでいた者が、どちらの王子につくかで敵になった」


 「それで、選択肢をなくそうと?」


 「選択肢がなければ、裏切りも反乱も起きません」


 即答だった。


 「誰を王にするか。誰と結婚するか。どの領主へ忠誠を誓うか。人は選べると思うから争う」


 「選べなくても争います」


 「少なくとも、争う余地は減らせる」


 ヴァレリアは振り返る。


 「結婚も忠誠も継承も、最初から最適な形に固定すればいい」


 リーゼロッテは、北境で見た少年を思い出した。


 父の借金を理由に鉱山へ入れられた十一歳の子。


 未亡人の財産を奪った「生活保障」。


 本人の意思を飛ばして成立した婚姻。


 全部、誰かが「最適」と決めた結果だった。


 「誰が最適だと決めるのです」


 「判断できる者です」


 「王妃殿下が?」


 「今は」


 その答えに迷いがない。


 「ですが、私は永遠には生きません」


 ヴァレリアが一歩近づいた。


 「だから、あなたが必要なのです」


 「私?」


 「誓印視を国家制度の中心へ置く」


 リーゼロッテは眉を寄せた。


 「契約裁判所の補助ではなく?」


 「違います」


 「では」


 「王族婚姻。四大公爵家の処分。領土契約。高位官職。大規模な財産移転。王国の根幹に関わる契約は、すべてあなたの認証を要する制度に変える」


 思っていた以上の提案だった。


 「私一人に?」


 「最初は」


 「それでは、王妃殿下がしてきたことと何が違うのです」


 「あなたは私より慎重です」


 「人選の問題ではありません」


 「なら、後継者を育てればいい。複数に分けてもいい。制度として誓印視を中心へ置けば、偽造も強制も減らせる」


 ヴァレリアの目は本気だった。


 「あなたが記録を読み、私が国家を動かす。ユリウスが王位を継ぐ。その三つが揃えば、争いを最小にできる」


 「共同統治をしろ、と?」


 「そうです」


 「レオンハルト様は」


 「反逆契約が偽造なら、いずれ釈放されるでしょう」


 「いずれ?」


 「明日の審理結果によります」


 まるで天秤に乗せるような言い方だった。


 王妃の側へ来れば助ける、とは言わない。


 言わなくても、そう聞こえる位置へ言葉を置く。


 「私が断ったら?」


 「それでも裁判は裁判です」


 「そして王妃殿下は、今の制度を続ける」


 「国を守るために必要なら」


 リーゼロッテは静かに息を吐いた。


 「王妃殿下は、自由を危険だと思っているのですね」


 「危険です」


 「選択も」


 「ええ」


 「本人が選ぶより、正しい人が決めたほうがいいと」


 「百万人が生きる国では、一人の迷いを優先できない」


 北境で聞いた理念と同じ。


 けれど今は、その終着点が見えた。


 ヴァレリアは人を憎んでいるのではない。


 人が間違えることを恐れている。


 裏切ること。


 迷うこと。


 争うこと。


 それらをなくすために、最初から選択を奪う。


 「王妃殿下」


 リーゼロッテは言った。


 「選べない平和は、平和ではなく管理です」


 ヴァレリアの表情が初めて止まった。


 「管理でも、人が死ななければいい」


 「でも、その管理で傷ついた人を私は見ました」


 「制度に欠陥があるなら直せばいい」


 「人に選ばせれば、決定は遅れます」


 ヴァレリアは低く言った。


 「迷い、反対し、やり直す。その間にも飢える者はいる。兵は命令を待ち、商人は道を選べず、王位は空く。私は、その遅れで死ぬ人間を見てきました」


 「私も北境で、遅れれば食べ物が尽きる状況を見ました」


 「なら分かるでしょう」


 「いいえ。急ぐことと、誰か一人が永遠に決めることは違います」


 穀物供出を止めたときも、鉱山を閉じたときも、リーゼロッテ一人の目だけでは決めなかった。


 台帳を開き、契約を照合し、現場の声を聞いた。


 それでも間違える可能性は残る。


 「遅い制度は直せます。でも、間違っても異議を言えない制度は、自分が間違っていることさえ分からなくなる」


 「誰が?」


 「私たちが」


 「また、上にいる者だけで?」


 リーゼロッテは首を横に振った。


 「鉱山の子供たちは、自分たちの契約が合理的だから働かされました。持参金を奪われた女性たちも、家の安定のためと言われた。北境の村々も、国境を守るためという名目で沈黙の誓約に繋がれていた」


 「例外です」


 「いいえ」


 「では何です」


 「制度が、人の意思より先に正解を決めた結果です」


 ヴァレリアは目を細める。


 「あなたなら、もっと上手くできる」


 「その言葉が一番危険です」


 リーゼロッテ自身も間違える。


 誓印視も万能ではない。


 見えるのは署名時の意思と文面の痕跡。


 法的な意味を自動で決める力ではない。


 「私の目に銀色が見えても、その契約が公正とは限りません」


 鉱山の契約がそうだった。


 「黒い歪みが見えても、それだけで裁判上無効にもできない」


 「だから制度にすればいい」


 「だから、一人の能力へ国家を預けてはいけないのです」


 ヴァレリアは黙った。


 「私は、王妃殿下と共同統治しません」


 「レオンハルトを失っても?」


 鋭い一言だった。


 リーゼロッテの胸が痛む。


 それでも答える。


 「彼を助けます」


 「質問への答えになっていません」


 「彼を助けるために、彼が嫌った仕組みへ入るつもりはありません」


 人ではなく法に誓え。


 私が間違えたとき、止められるように。


 レオンハルト自身が選んだ言葉。


 「私が王妃殿下の隣で正しい契約だけを選ぶ国を作ったら、次は誰が私を止めるのです」


 ヴァレリアは答えなかった。


 霧雨が強くなる。


 白薔薇の花弁へ、水滴が落ちた。


 「残念です」


 王妃は手袋をはめ直した。


 「本当に」


 「私もです」


 「何が?」


 「王妃殿下が、誰も信じられなくなるほど怖い思いをしたことです」


 一瞬。


 ヴァレリアの目に怒りが浮かんだ。


 「同情は要りません」


 「同情ではありません」


 「なら、忘れなさい」


 声が冷たくなる。


 「あなたは原本を見つけた。契約裁判所は真贋審理を始めた。ですが、審理が終わるまで国を空白にはできません」


 リーゼロッテの背筋が伸びる。


 「何をなさるのです」


 「明日、ユリウスを戴冠させます」


 温室の空気が変わった。


 「明日はレオンハルト様の最終審理日です」


 「だからです」


 「王国統治誓約の原本は係争中です」


 「だからこそ、結論が出る前に国の形を確定させる」


 「原本の条文では、国王陛下が存命で統治不能のまま生前譲位するには――」


 「知っています」


 ヴァレリアが遮った。


 その一言。


 リーゼロッテは息を止めた。


 知らなかったのではない。


 原本の制限を理解したうえで、進める。


 「王妃殿下」


 「明朝、戴冠広場へ来なさい」


 「何のために」


 「あなたが来ても、来なくても式は始まります」


 ヴァレリアは白薔薇を一輪だけ見下ろした。


 「王国は、裁判所が紙を読み終えるまで待ってはくれない」


 リーゼロッテは返事をしなかった。


 もう交渉ではない。


 宣言だった。


 翌日。


 レオンハルトの最終審理と処刑予定日。


 その朝に、ユリウスの戴冠式を強行する。


 裁判所が原本の真贋を確定する前に。


 既成事実を作るために。


 リーゼロッテは温室を出た。


 外ではオスカーとミーナが待っている。


 「どうでした」


 ミーナが駆け寄る。


 リーゼロッテは王宮の塔を見上げた。


 「明日、戴冠式を強行します」


 オスカーの顔が変わる。


 「止められるのか」


 「止めます」


 今夜のうちに。


 戴冠契約を登録させないための手続きを取る。


 法的原本は、すでに契約裁判所の証拠庫にある。


 王妃が明日を選んだなら。


 こちらも、明日までに必要な異議を公の手続きへ載せる。


 期限まで、あと一夜だった。


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