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婚約破棄された誓約鑑定令嬢は、沈黙の辺境公爵と偽りの王国を縫い直す  作者: 乾為天女


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19/21

第19話 水没した王家の地下墓所

 翌朝。


 処刑予定日まで、残り六日。


 ノエルは夜明け前に王立聖堂から宿舎へ来た。


 「お話しします」


 それだけ言って、深く頭を下げた。


 リーゼロッテは椅子を勧めた。


 「ご家族を助けた対価ではありません」


 「分かっています」


 「それでも話すのですか」


 「はい」


 ノエルは震える手で、一枚の古い王都地図を広げた。


 指が止まったのは、王宮の北東。


 今は使われていない王家の旧墓域だった。


 「ここです」


 「王家の地下墓所?」


 「現在使われている王家霊廟ではありません。百年以上前に閉鎖された旧地下墓所です」


 王太子妃教育で存在だけは習ったことがある。


 地盤沈下と浸水のため、埋葬先を現在の霊廟へ移した。


 以後は封鎖。


 王家の祭祀でも使われない。


 「なぜ、そんな場所へ」


 「誰も行かないからです」


 ノエルの答えは簡潔だった。


 十年前。


 エレオノーラは王国統治誓約の現行認証写しと、契約石の古い照合記録が一致しないことに気づいた。


 その後、旧認証写しの回収が始まった。


 「エレオノーラ様は、法的原本まで差し替えられると考えました」


 「それで原本を持ち出した?」


 「はい。ただし、一人ではありません」


 リーゼロッテは息を止めた。


 「レオンハルト様ですね」


 ノエルが頷く。


 「当時十七歳。公爵位を継いだばかりのグラーツ公爵に、エレオノーラ様は助力を求めました」


 廃礼拝堂へ繋がった十年前の私財売却記録。


 廃礼拝堂。


 母の指輪。


 十年前から二人が繋がっていたことは分かっていた。


 それでも、具体的に母とレオンハルトが原本を運んだと聞くと、胸の奥が強く揺れた。


 「あなたも一緒に?」


 「いいえ」


 「では、どうして場所を」


 「エレオノーラ様から後で聞きました」


 ノエルは目を伏せる。


 「もし自分とグラーツ公爵のどちらにも何かあったとき、原本の所在を知る者が一人は必要だと」


 「母は、自分が狙われると分かっていた」


 「少なくとも、危険は承知していました」


 「それでも王都へ戻った?」


 「はい」


 リーゼロッテの喉が詰まる。


 「なぜ」


 「囮になるためです」


 ノエルはゆっくり言った。


 「原本の隠し場所を悟らせないために、エレオノーラ様は王都へ戻りました。グラーツ公爵は北境へ戻った。二人が別々に動けば、追う側はエレオノーラ様がまだ原本を持っていると考える、と」


 「その数日後に、母は死んだ」


 「……はい」


 雪道の事故。


 馬車の転落。


 九歳だったリーゼロッテへは、それだけが伝えられた。


 「レオンハルト様は、そのあと沈黙の誓約を結ばされた」


 ノエルは答えなかった。


 答えられないのではない。


 そこは彼が直接確認していないのだ。


 「分かりました」


 リーゼロッテは立ち上がった。


 「行きます」


 「今から?」


 「一日でも早いほうがいい」


 ノエルは止めた。


 「雪解けが始まっています。旧地下墓所は、春先になると地下水が入ります」


 「だからこそ今です」


 水が増えれば、原本そのものが失われるかもしれない。


 王妃側がこちらの動きを知る前に回収する必要もある。


 同行はミーナとオスカー。


 レオンハルトは拘束中。


 ノエルは王都に残した。


 原本の場所を知る者全員が同時に動けば、監視されていた場合に目印になる。


 昼前。


 三人は旧墓域へ着いた。


 表向きは王家の管理地だが、長く使われていない石壁は蔦と苔に覆われている。


 鉄門は錆びていた。


 ノエルから聞いた保守用の側道を回る。


 崩れた石塀の先に、小さな管理扉があった。


 「本当にここへ入るのですか」


 ミーナが地下へ続く階段を見下ろす。


 「怖い?」


 「怖いです」


 「私も」


 オスカーが先頭に立った。


 「怖いなら、なおさら足元だけ見てください。上を見て歩くと滑ります」


 「慰めになっていません」


 三人で降りる。


 石段は途中から濡れていた。


 さらに下。


 足首まで水。


 膝まで。


 雪解け水が石の継ぎ目から細く流れ込み、地下通路へ溜まっている。


 「昨日より増えているかもしれませんね」


 ミーナがランプを高く掲げた。


 「帰り道が消える前に済ませます」


 ノエルの説明では、旧墓所の最深部ではない。


 三代前の王弟家が使っていた横廊。


 石棺が撤去されたあと、壁龕だけが残っている。


 問題は、その手前だった。


 通路の一部が完全に水没している。


 距離は短い。


 向こう側の天井は見える。


 だが、腰より深い。


 「夫人はここで待ってください」


 オスカーが言った。


 「場所を知っているのは私です」


 「説明を受けたのは全員でしょう」


 「壁龕の印の見分け方まで聞いたのは私だけです」


 ノエルは最後の目印をリーゼロッテへだけ伝えた。


 王家紋ではない。


 エレオノーラが使っていた契約石照合官の小さな検印。


 「私が行きます」


 「公爵閣下に殺されそうだ」


 「拘置中です」


 「釈放されたあとが怖いと言っています」


 それでもオスカーは止めなかった。


 三人で縄を腰へ結ぶ。


 水へ入る。


 冷たい。


 息が詰まるほど冷たい。


 腰。


 胸。


 最も深いところでは肩近くまで来た。


 ミーナが歯を鳴らしながら言う。


 「これ、原本が無事でも私たちが風邪で倒れます」


 「戻ったら温かいものを飲みましょう」


 「絶対ですよ」


 短い水路を抜ける。


 その先は一段高くなっていた。


 ランプを置く。


 壁龕が並んでいる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 どれも空。


 リーゼロッテは石の縁を指でなぞった。


 苔。


 欠け。


 古い彫刻。


 五つ目。


 右下。


 小さな楕円の印。


 母の検印。


 「ここです」


 オスカーが石板へ手をかける。


 動かない。


 三人で押す。


 石が低い音を立ててずれた。


 奥に空間がある。


 さらに、金属の箱。


 錆びている。


 だが蓋の継ぎ目には、蝋と樹脂を重ねた防水封が残っていた。


 リーゼロッテの手が震える。


 「母が触ったもの……」


 すぐには開けない。


 まず箱全体を布で拭く。


 封の状態を確認。


 誰かが後から開けた跡はない。


 オスカーが持参した記録紙へ、発見場所と箱の状態を書く。


 ミーナが時刻を書く。


 地下墓所で見つけたからといって、後で好きに扱っていいわけではない。


 「開けます」


 封を切る。


 中にはさらに油紙。


 その内側。


 厚い羊皮紙の束。


 最初の一枚を見た瞬間、リーゼロッテは息を呑んだ。


 『王国統治誓約』


 古い王家紋。


 登録番号。


 契約裁判所の照合印。


 四大公爵家の承認印。


 そして、法的原本であることを示す原本検印。


 視界には銀色。


 赤い亀裂はない。


 けれど、リーゼロッテはその色だけで判断しなかった。


 「登録番号を記録してください」


 オスカーが読み上げる。


 ミーナが書く。


 次に承認印。


 照合番号。


 全て記録する。


 「これで、王都にある現行版と正式に比較できます」


 箱の底には、別の小冊子があった。


 母の字。


 リーゼロッテは一目で分かった。


 『照合記録』


 頁を開く。


 原本の条文。


 王宮で配布され始めた新認証写し。


 その相違点が、項目ごとに記録されている。


 『摂政による通常行政委任――一致』


 『四大公爵家に関する処分――原本は三家および契約裁判所長の承認を要する。新認証写しでは制限記載欠落』


 『王族婚姻――同上』


 『領土譲渡――同上』


 『国王存命中の統治不能認定および生前譲位――原本は王室医師、四大公爵家三家、契約裁判所長の承認を要する』


 リーゼロッテの指が止まる。


 北境でヴァレリアが持ってきた三通。


 国王統治不能認定。


 生前譲位。


 ユリウス戴冠。


 王妃一人では成立しない。


 原本には、はっきりそう書かれている。


 さらに頁をめくる。


 『摂政本人または直系卑属が利益を得る行為について、摂政単独署名による承認は不可』


 ユリウスへの譲位。


 これも。


 「……全部、消されていた」


 リーゼロッテは呟いた。


 母の記録は続く。


 『改変は誤記ではない可能性が高い』


 『回収された旧認証写しとの比較が必要』


 『登録変更申請の承認記録を確認すること』


 そして最後。


 リーゼロッテは頁をめくる手を止めた。


 殺害犯の名。


 命令者の名。


 事故についての記録。


 それを探している自分に気づく。


 ない。


 母が誰かに殺されると確信していた記述もない。


 まして、ヴァレリアが殺害を命じたという証拠も。


 「夫人」


 オスカーが低く呼んだ。


 「ありません」


 「何が」


 「母を殺した人の名前」


 声が少しだけ震えた。


 「王妃が契約を改変した疑いは残っている。原本との差も記録されている。でも、母の死とは別です」


 オスカーは余計な慰めを言わなかった。


 「なら、別に証拠を探すしかない」


 「はい」


 悔しい。


 けれど、そこで結びつけてはいけない。


 契約偽造の証拠があるからといって、殺人の証拠まであることにはならない。


 リーゼロッテは照合記録を閉じた。


 「持ち帰ります」


 原本と照合記録は、新しい防水布へ包む。


 発見時の箱も捨てない。


 封の破損状態を含めて、すべて持ち帰る。


 戻り道。


 水は来たときより高くなっていた。


 雪解け水が流れ込み続けている。


 ミーナが顔を青くする。


 「急ぎましょう」


 三人で縄を確かめる。


 原本はリーゼロッテの胸元ではなく、オスカーが防水袋ごと肩へ固定した。


 「一番転びにくい人が持ってください」


 「夫人が言うと説得力がある」


 「私は二度ほど滑りましたから」


 「三度です」


 ミーナが訂正した。


 水へ入る。


 帰りは冷たさを感じる余裕もなかった。


 一歩。


 また一歩。


 足元の石が見えない。


 途中でミーナの足が滑った。


 縄が張る。


 リーゼロッテとオスカーが同時に踏ん張る。


 「大丈夫?」


 「大丈夫です!」


 声だけは元気だった。


 なんとか浅瀬へ戻る。


 石段を上がる。


 外へ出たときには、日が傾いていた。


 空気が暖かく感じるほど、地下は冷えていた。


 王都へ戻る馬車の中。


 原本を入れた箱は、三人の間に置いた。


 誰も眠らない。


 途中で契約裁判所へ使者を送り、法的原本と関連照合記録を回収したことだけを通知した。


 到着後は、私邸へ持ち帰らない。


 そのまま裁判所の証拠保管室へ預ける。


 発見者三名の署名。


 発見場所。


 発見時刻。


 箱の封。


 開封の経緯。


 全部記録する。


 夜。


 契約裁判所の保管庫で、原本は新しい証拠封印を受けた。


 受付官が帳簿へ時刻を書く。


 日付が変わる直前だった。


 残り五日。


 リーゼロッテは封印された箱を見つめた。


 母が十年前に守ったものは、ようやく公の手続きへ戻った。


 けれど。


 レオンハルトはまだ牢の中。


 王妃の改変疑惑も、母の死も、まだ裁判で確定していない。


 原本を見つけただけでは終わらない。


 明日からは、この原本を使える証拠へ変えなければならない。


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