第94話 忍び寄る影
王都の中央貴族街に構える一角の執務室では、書類の束が机の上に叩きつけられていた。
「ハルシュタットからの上納金が滞り、カルナ村からの石炭供給も完全に途絶えただと? 一体現地で何が起きている!」
詰問する財務官に対し、ハルシュタットから逃げ戻った目代と、顔を腫らした業者のガストンが青ざめた顔で頭を下げていた。
「は、北領の商人と名乗る者たちが現地に入り込み、法的な隙を突いて我々の介入を完全に遮断したのです……! 裏には北領主代理、リーゼロッテ・フォン・ベルガーの影がございます!」
「あの北の落ちこぼれ女か……!」
財務官の顔が苦々しく歪む。
単なる地方の田舎領地だと高をくくっていた北領が、いつの間にか周辺の旧領地を民間取引という不可解な手法で絡め取り、独自の経済圏を築き上げている。王都の利権に直接手を突っ込まず、法とビジネスの枠組だけで中央の支配を無効化するやり口は、王都の貴族たちにとって最も不気味で扱いにくい代物だった。
「これ以上、あの女好き勝手にやらせるわけにはいかん。すぐに特別監査の準備を進めろ。手始めに、北領の流通ルートに難癖をつけて締め上げる」
暗雲のような企みが、王都の闇の中で静かに持ち上がっていた。
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同じ頃、北領の執務室には、珍しく急ぎの様子でマルクが駆け込んできていた。
「リーゼロッテ様、ルーク殿! 王都の情報網から知らせが入りました。ハルシュタットを追われた目代とガストンが中央へ駆け込み、北領を名指しで告発したようです」
「思った通りの動きね」
私は手元の書類から顔を上げず、淡々と答えた。
「利権を奪われた彼らが、そのまま黙っているはずがないもの」
隣で帳面をめくっていたルークが、冷ややかな手つきで眼鏡の端を押し上げた。
「告発の名目は何ですか、マルクさん」
「『不当な流通独占および、王都の債権回収妨害』だそうです。王都の財務庁は、近いうちに北領とその周辺の流通ルートに対し、厳しい特別監査官を派遣する構えです」
「特別監査……要するに、言いがかりをつけて経済網の車輪を止めに来るわけね」
私は深く腰掛け直し、静かに息を吐いた。
「ええ。ですが、彼らが攻め込んできそうな論点はすべて予測済みです」
ルークは手元の帳面から数冊の控えを取り出し、整然と机の上に並べた。そこにはハルシュタットやカルナ村、そして東部開拓村との間で交わされたすべての売買契約書、税務処理の記録、および移動物資の検収印が完璧な精度で揃えられていた。
「ハルシュタットとの契約は民間の事業投資。カルナ村とは対等な物品売買。いずれも王国の商取引法に一ミリたりとも違反していません。どれほど執拗に査察に入ろうと、彼らが見つけられるのは『完璧に法を守って利益を出している健全な取引の山』だけです」
「頼もしいわ、ルーク。でも、向こうは法を正しく運用するために来るんじゃないわね。制度の隙間を突いて、こちらの物流を物理的に滞らせるのが目的のはずよ」
「その通りです」
ルークの瞳に、静かだが鋭い光が宿る。
「だからこそ、監査官が到着する前に、こちらの手をもう一歩先へ進めます。彼らが『北領の独占』と呼ぶものを、誰も崩せない『北部の標準規格』に変えてしまいましょう」
王都が仕掛けてくる圧力を前にしても、私たちの足が止まることはない。
理不尽な権力との決戦に向け、北領はさらなる盤石な備えを固め始めていた。




