第86話 命を賭した直訴
応接室に案内された男は、身を縮こませるようにしてソファの端に腰掛けていた。
擦り切れた上着、泥と霜で黒ずんだブーツ。膝の上で固く握りしめられた手には痛々しい擦り傷がいくつもあり、山越えの過酷さを物語っていた。
「……カルナ村の代表、ライナーと申します」
アルフレッドさんが差し出した温かいお茶に一瞬だけ視線を落としたものの、男――ライナーは口をつけることすら躊躇い、乾いた声で名乗った。
「急なおしかけを、どうかお許しください……。ですが、もう文を送って返事を待つだけの猶予すら、我が村には残されていないのです」
ライナーは意を決したようにソファから滑り落ち、絨毯の上に直接手をついて頭を下げた。
「リーゼロッテ様……! 不躾なお願いであることは重々承知しております! 我が村は、長年の不作と領主の失踪により、今年の冬を越せる見込みが完全に立ちません!」
「顔を上げてください、ライナーさん」
私が静かに声をかけると、ライナーは湿った瞳を上げ、必死の面持ちで言葉を続けた。
「領主が残していった借金を理由に、王都の業者が押し寄せ、秋にわずかに収穫できた穀物まで根こそぎ持っていかれました……! このままでは、冬の寒波が来る前に村人全員が餓死するか凍死します。どうか……どうか北領の資材と食料をお分けいただけないでしょうか!」
「……事情は分かりました」
隣に立つルークが、感情を挟まない冷静な声で尋ねた。
「ですが、北領も無償で支援を配給できるわけではありません。行政権のない他領の村に対し、どのような条件で支援を求められるおつもりですか」
「もちろん、タダでとは言いません!」
ライナーは拳を握り直し、叫ぶように告げた。
「村の土地の所有権でも、今後の収穫の半分でも、北領にお納めします! 村人を北領の小作として使っていただいても構いません! ですから……どうか……!」
己のすべてを差し出す言葉――それは、かつて王都で追い詰められた無数の貧困層が、強欲な貴族や業者に身を滅ぼす契約を結ばされた時の光景そのものだった。
追い詰められた人間は、目の前の死を免れるために、自らの未来を丸ごと売り払ってしまう。
「土地や、収穫の半分、ですか」
ルークが帳面に視線を落としたまま、低く呟いた。
「自分たちの所有権を放棄し、永久に搾取される道を選ぶ。今この場の飢えを凌ぐためとはいえ、それは自ら進んで奴隷の鎖を首に巻くようなものです」
「それしか……それしか残されていないのです!」
ライナーの声が震えた。
「奪われることには慣れています! 土地を取られても、半分奪われても、命さえつながれば……村の子供たちさえ生き残れれば、俺たちはどんな重労働にでも耐えます!」
喉を枯らして訴えるライナーの姿に、応接室の中に重い沈黙が流れた。
彼らは「支援」を求めてきたのではない。自分の命と未来を質に入れてでも、家族を生かすための「取引」をしにきたのだ。
私は静かに息を吐き、膝の上の手に力を込めた。
ハルシュタット領で試した仕組みは、単に数値を最適化するためだけのものではない。このように理不尽な選択を迫られ、己を削るしかない人々を救うためにこそあるのだから。
「ライナーさん」
私は真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「あなたの覚悟は、確かに受け取りました。……ですが、私たちが求める取引は、そんなものではありません」
絶望と困惑が交錯するライナーの前に、ルークが一枚の新しい羊皮紙を滑り込ませた。




