第85話 次の約束へ
ハルシュタット領から持ち帰った資料の整理が一段落した頃、ルークが厚手の帳面を差し出してきた。
「ハルシュタット領との優先供給契約による、北領内の物流試算が完了しました。精製金属と石炭の確保により、冬場の建築コストが約一割削減できます」
「一割……それは大きいわね。ハルシュタットの小作農たちも年貢が下がって手元に食料が残り、北領も安価で良質な資材が入る。お互いに利益が出る構造が、しっかり証明されたわけだわ」
私は満足げに頷き、執務机に置かれた一通の封蝋された書状へ手を伸ばした。
無骨な紙質に、歪んだ文字。ハルシュタットから戻った直後にアルフレッドさんから手渡された、「カルナ村」からの救援要請状だ。
ルークが眼鏡の位置を直し、視線を書状へ落とした。
「カルナ村……ハルシュタット領よりもさらに西、山脈の谷間に位置する開拓集落ですね。地質データを見る限り、上質な石炭と木材の産地ですが……現状は最悪です」
「ハルシュタット以上なの?」
「はい。ハルシュタットには強欲とはいえ『領主』が存在していましたが、カルナ村の領主は王都の債務から逃れるために数年前に領地を放棄し、失踪しています。つまり行政機能が完全に麻痺している状態です」
「領主すら頼れない棄民の村、というわけね……」
書状には、長年の不作と王都側の業者による不当な取り立てにより、今冬の食料どころか暖を取る薪や防寒資材すら底をついている惨状が、震える文字で綴られていた。このままでは冬の寒波で村ごと全滅しかねないという、切迫した叫びだった。
「行政が存在しない以上、税率の交渉や公式な協定を結ぶ相手がいません。かといって野放しにすれば、飢えた人々が難民となって他領へ流出し、治安の悪化を招きます」
ルークの声は静かだったが、その瞳には危機感が宿っていた。
「頼れる領主がいないのなら、現場の『自治組織』と直接契約を結ぶしかないわね。ハルシュタットで証明した民間取引の応用よ」
「ですがリーゼロッテ様、彼らは王都の業者に騙され、奪われ続けてきた人々です。他者への警戒心は、東部開拓村やハルシュタットの比ではないでしょう。下手に支援の手を差し伸べても、『また別の形で搾取されるのではないか』と疑われる可能性があります」
「ええ。だからこそ、一方的な『施し』でも『奪う契約』でもなく、彼らの誇りを守る対等な仕組みが必要なの」
私がそう答えた瞬間、ノックの音とともにアルフレッドさんが静かに入ってきた。
「お嬢様。カルナ村の代表と名乗る男が、北領の境界門に到着いたしました。命がけで山を越えてきたようで、満身創痍の状態でございます」
「……届いた書状の返事を待つ余力すら、向こうにはなかったのね」
私は立ち上がり、服装を整えた。
「通してあげて、アルフレッドさん。応接室で迎えましょう」
「かしこまりました。ただちにご案内いたします」
アルフレッドさんが深々と礼をして退室すると、ルークが手元の帳面を閉じた。
「準備はできています、リーゼロッテ様。『標準提携契約』の文面案はすでにまとめてあります」
「ありがとう、ルーク。ハルシュタットで掴んだ手応えを、今度はあの極限の村で形にしましょう」
絶望の淵から命がけで助けを求めてきた者に対し、北領が差し出すべきは哀れみではなく、未来を共に築くための新たなルールだ。
私たちは静かな決意を胸に、次の約束を結ぶべく応接室へと向かった。




