第84話 ハルシュタットの盟約
領主館の執務室で、マルクが差し出した追加の協定書に領主が迷いなく大輪の署名を走らせた。
「ふむ! 我がハルシュタットの鉱物資源と農産物を、今後五年にわたりマルク商会へ優先供給する! これで我が領の財政も安泰だな!」
領主は満足げに髭を撫で、自画自賛の笑みを浮かべている。
その脇で、荷物をまとめた王都の目代が、一言の挨拶もなく忌々しそうに部屋を去っていった。目代の脅しはすでにルークの法的ロジックによって無効化されており、これ以上この地に留まる理由も口実も失っていたのだ。
「領主様、まことに賢明なご決断でございます。これでハルシュタットと我が商会、ひいては北領全体の物流が太く結ばれました」
マルクが深々と頭を下げ、契約書を丁重に回収する。
公的な「領地同盟」ではない。あくまで民間商会と領主との間の「長期優先買取契約」だ。王都のいかなる介入も跳ね返す、法的に完璧な防衛壁を伴った実質的な経済提携が、ここに完成した。
領主館を辞し、ハルシュタットの集落の境界まで戻ってくると、街道の脇に人垣ができていた。
作業着の泥を拭い、身なりを整えたアルノを先頭に、小作農たちがズラリと並んで待っていたのだ。
「マルクさん、それに技師のお二人……!」
アルノが駆け寄り、自分の手で摘み取ったばかりの瑞々しい野の花の束を、私へ差し出してきた。
「急ごしらえで申し訳ない。……俺たちからの感謝の気持ちだ。あんたらが届けてくれた水と知恵のおかげで、俺たちは『生きている』って実感を取り戻せた」
「きれいなお花ね。ありがとう、アルノさん」
受け取った花束からは、清らかな水の匂いがした。
「俺たちは忘れない。領主様じゃなく、あんたらが俺たちに光をくれたことを。約束通り、死ぬ気で耕して、最高品質の石炭と作物を北領へ送り出してみせる。それが俺たちのプライドだ」
「期待しているわ。でも、無理をして身体を壊さないでね。これからはあなたたちの努力が、そのまま自分たちの生活を豊かにするのだから」
私が微笑むと、アルノは「応ッ!」と力強く胸を叩いた。後ろに控えていた村人たちからも、温かな拍手と歓声が上がる。
馬車に乗り込み、ハルシュタットの山並みが小さくなっていくのを窓から見つめた。
「完璧な着地ですね、リーゼロッテ様」
向かいに座るルークが、帳面に最後の検収印を押しながら口を開いた。
「ハルシュタット領主には面目と増収を与え、王都の目代の介入を封じ、現場の小作農には自立の術と対価を渡す。そして北領は、欲しかった鉱物資源の優先供給権を無駄なコストなく手に入れた」
「ええ。誰も不幸にならない、最適化された勝利ね」
「はい。武力で支配するよりも遥かに強固です。人は自らの利益と尊厳を守ってくれる存在を、決して裏切りませんから」
ルークの眼鏡の奥の瞳が、沈みかけた夕日を受けて穏やかに揺れていた。
北領主館へ帰還すると、出迎えたアルフレッドさんに事の顛末を報告した。
「左様でございましたか……! ハルシュタット領の鉱山資源が確保できたとなれば、我が領の鍛冶・建築部門の生産性は跳ね上がります」
アルフレッドさんが誇らしげに目を細める。
こうして、ハルシュタット領の問題は「民間迂回モデル」という新たな手法によって完全に解決した。北領を中心に広がる相互扶助のネットワークは、また一段と密度と強度を増したのだ。
安堵したのも束の間、執務机に置かれた一通の速達状が目に入った。
見慣れない無骨な羊皮紙に押された、悲痛な烙印のような封蝋。
「……アルフレッドさん、これは?」
「ハルシュタットの件の最中に届いたものでございます。さらに西の過酷な環境に位置する『カルナ村』の代表から、命がけで届けられた救援要請でございます」
私とルークは視線を交わした。
ハルシュタットで試した仕組みと知恵が、さらに切迫した極限の現場で試されようとしていた。




