第83話 水脈の蘇生と領主の骨抜き
工事が始まって十日目、ハルシュタット領を流れる川の景色は劇的な変化を遂げていた。
上流に設置された三段階の沈殿・中和槽により、赤茶けた鉱山害水から金属成分が取り除かれ、麓へ注ぎ込む水は驚くほど澄み切った輝きを取り戻していた。
「見ろ……! 川底の石が見えるぞ!」
新しく掘られた幹線水路の脇で、アルノが歓声を上げた。泥に塗れた小作農たちが次々と作業の手を止め、引き込まれた清水を手ですくって顔を洗っている。
「土の酸性度も正常値まで下がりました」
ルークが水路の脇で試験紙を検分し、淡々と結果を口にした。
「これで害水による根腐れは起きません。あとは腐葉土を混ぜて土を肥やせば、次の収穫期には当初の計算通りの成果が出ます」
「すごい……本当に水が変わった……!」
アルノは濡れた手を固く握り締め、私たちに向かって深々と頭を下げた。
「あんたらのおかげだ。俺たちだけじゃ、害水を止めるなんて発想すら浮かばなかった。……北領の商人さんたちは、命の恩人だ」
「お礼なら、自分たちの努力に言いなさい」
私は微笑みながら答えた。
「夜を徹して水路を掘り進めたのは、あなたたち自身でしょう? 知恵があっても、手を動かす人間が本気にならなければ、水は一滴も流れなかったわ」
アルノは照れくさそうに頭を掻いたが、その瞳には強い自負が満ちていた。
年貢率が五割に下がったことで、働けば働いた分だけ自分たちの食料になる。そのシンプルな事実が、絶望に支配されていた小作農たちを力強い労働者へと変えていた。
その頃、丘の上の領主館では、能天気な宴が催されていた。
「ガハハ! 見ろ、あの澄んだ水を! わしの英断によってハルシュタットは生まれ変わったのだ!」
館のバルコニーから酒杯を掲げる領主の声が、下までうっすらと響いてくる。自分は一銭も出さず、指一本動かしていないにもかかわらず、すべて自分の手柄だと思い込んでいるようだった。
「随分とおめでたい領主様ですね」
馬車の影で帳面を整えていたルークが、皮肉めいた吐息を漏らした。
「ええ。でも、あれで良いのよ」
私は領主館を見上げ、静かに微笑んだ。
「あの方には『名誉と増えた税収』を握らせて満足させておけばいいわ。現場の職人や農民たちが誰を信頼し、誰と取引をしているのか……本当の主導権がどこにあるか、あの方は気づいてもいないのだから」
「ええ。すでに害水処理施設の維持管理ノウハウも、買い付けの優先ルートも、すべてマルク商会が握っています」
ルークが眼鏡の端を押し上げ、冷徹な分析を重ねた。
「領主というお飾りを残したまま、実質的な経済構造と人心は完全に北領側へと移行しました。余計な統治コストを払わずに資源ルートを確保する……完璧な『骨抜き』です」
「マルクさんもしっかり利益を出してくれているしね」
「商人冥利に尽きますよ、お二人とも!」
いつの間にか後ろに立っていたマルクさんが、満足げに腹を叩いた。
「ハルシュタットの精製金属と石炭は、来月から北領へ定期出荷されます。領主様も『収穫が増えて余の取り分も増えた』と大喜びで、契約の延長を向こうから打診してきたくらいです」
名目上の領主の威厳を保たせたまま、現場の命脈を完全に握る。
武力も威圧も使わない、ビジネスとロジックによる領地改革。
ハルシュタットの歪みは正され、北領を中心に広がる新しいネットワークに、また一つ強固な結び目が加えられた。




