第82話 隙のない契約
調印のために設けられた領主館の別室には、氷のように冷ややかな空気が張り詰めていた。
机の上に広げられたのは、マルク商会が用意した正式な投資契約書だ。領主が羽ペンを取り、まさに署名しようとしたその瞬間――脇に立っていた目代が、手元を遮るように書類を叩いた。
「待たれよ、領主様。軽率に署名すべきではない」
目代は不機嫌さを隠そうともせず、私とルークを蛇のような目で見つめた。
「そこの二人の技師……身元が怪しすぎる。北領の意を受けた工作員ではないのか? 王都の許可なく他領の公的な水路や鉱山設備に手を加えることは、王国法における『領地干渉罪』に抵触する可能性がある」
土壇場での露骨な揺さぶりだった。領主がビクリと肩を揺らし、ペンを止める。
だが、マルクは慌てるどころか、待っていましたとばかりに口元をゆるめた。
「お言葉ですが、監察官様。この契約はハルシュタット領主様と、民間である我がマルク商会との『二者間における事業投資契約』に過ぎません。北領政府の公文書でもなければ、領同盟の協定でもございませんよ」
「口先だけの誤魔化しだ!」
目代が声を荒らげる。
「技術を提供しているのは北領の者だろうが!」
そこで、それまで静かに控えていたルークが、一歩前へ出た。眼鏡の奥の瞳には、感情の欠片もうかがえない。
「王国商法第十四条および地方技術者雇傭規程に基づき、民間商会が国外・他領の技術者を個人的に雇用し、現地調査に立ち会わせる行為に一切の違法性はありません」
ルークは懐から一冊の法令集を取り出し、目代の目前で正確なページを開いて提示した。
「また、王都監察官の権限は『税収の監査および不法な武力行使の監視』に限定されています。領主の同意を得た民間事業を不当に阻害し、それによって領地の収益増(王都上納金の増加)を妨害した場合――」
ルークは少しだけ声を低くし、冷淡な事実として告げた。
「本国の中央監査室に対し、監察官殿の『職務領域逸脱および王都財政への機会損失罪』として報告書を提出せざるを得なくなります。あいにく、私どもは王都の法手続きにも精通しておりますので」
「な……ッ!?」
目代の顔から、急速に血の気が引いていった。
自分の地位を守るために使っていた「王都の権威」という武器を、より正確な法律のロジックによって完全に打ち砕かれたのだ。ここで無理に妨害を続ければ、自分自身の立場が危うくなる。
「……くっ、好きにするがいい! だが成果が出ねば、只では済まさんぞ!」
捨て台詞を残し、目代は逃げるように部屋を立ち去った。
「す、素晴らしい……不当な圧力を跳ね返してくださるとは」
領主は目代がいなくなったことを確認すると、胸を撫で下ろし、流されるまま契約書へ署名と捺印を行った。
「これで……勝負ありね」
私は隣のルークに、声を出さずに囁いた。ルークは小さく頷き、手元の帳面をパタンと閉じた。
自腹を切らない領主の欲と、法的な隙のない契約書。目代の介入を完全に遮断した瞬間だった。
その日の午後、さっそく現地での工事が始まった。
赤茶けて汚れていた川の上流では、ルークが指示した中和ろ過槽の設置が進められ、麓の農地ではアルノたち小作農が一斉に鍬を打ち振るっていた。
「おい! 溝の深さは指示通り五十センチだ! 手を抜くなよ、全部俺たちの飯に跳ね返ってくるんだからな!」
アルノの力強い声が、かつて静まり返っていた村に響き渡る。
小作農たちの顔には泥がついていたが、その瞳には昨日までの濁った絶望は影も形もなかった。
「……人は、希望と数字(根拠)を持てば、ここまで変わるのですね」
作業風景を遠巻きに見つめるルークが、ぽつりと漏らした。
「ええ。与えられた命令じゃなく、自分たちで勝ち取った五割だもの。目の色が違って当たり前よ」
私は作業に汗を流す人々を見つめながら、ハルシュタットの地に確かな再生の風が吹き始めたことを実感していた。




