第81話 数字という武器
翌朝、ハルシュタット領主館の中庭には、異様な緊張感が漂っていた。
使い古した農具を手に、泥に汚れた服を着た数十人の小作農たちが集まっている。先頭に立つのはアルノだ。その手には、昨夜村中を回って集めた血判入りの誓約書が握られていた。
「何の真似だ、この下衆どもが! 領主様のお館前で暴動でも起こす気か!」
館の兵士たちが剣を半ば抜きながら怒声を浴びせる。だが、アルノは怯むことなく、まっすぐに広場の階段を見上げ続けた。
騒ぎを聞きつけて姿を現したのは、苛立ちを隠さない領主と、その横で冷ややかな笑みを浮かべる王都の目代だった。
「アルノと言ったな。何のつもりだ? 年貢の支払いが滞っている分際で、打ち首になりたいのか」
領主の威圧的な声に対し、アルノは深々と頭を下げた後、毅然として顔を上げた。
「領主様! 私たちは暴動を起こしに来たのではありません。ハルシュタット領の収穫を、今の三倍に増やすための直訴に参りました!」
「……三倍だと?」
領主が呆れたように眉をひそめる。
「ふん、出たら目を。お前たちが怠けて畑を荒らしているのは目に見えている」
「怠けているのではありません! どれだけ作っても七割奪われる仕組みでは、来年の種もみすら残らないから死に物狂いになれないのです!」
アルノは掲げた羊皮紙を強く握りしめた。
「提案させてください! 年貢率を『五割』に下げていただきたい! その代わり、北領のマルク商会が提供する技術と設備を受け入れ、私たちは今の三倍の土地を耕します!」
広場が一瞬、静まり返った。
目代が不快そうに鼻を鳴らす。
「愚かな。年貢率を下げれば領主様の取り分が減るに決まっているだろう。減税を要求するための詭弁だな」
「いいえ、減りません!」
アルノは昨日ルークから教わった言葉を、胸を張って言い切った。
「今の絶望的な状況で『100』しか作れず、その7割を取るなら領主様の取り分は『70』です。ですが、五割に下がって私たちが死ぬ気で『200』を作れば、領主様の取り分は『100』になります! 率を下げた方が、領主様の手に入る絶対量は増えるのです!」
思いもよらない計算を突きつけられ、領主が言葉を詰まらせた。肥満した頭で必死に数値を弾こうとしているのが分かる。
その絶妙なタイミングで、商人マルクが静かに前へ躍り出た。
「領主様、あながち夢物語ではございませんよ」
マルクは懐から整然と書き込まれた大判の図面を取り出し、領主の前に広げてみせた。
「我が商会が立て替える資金で害水を遮断し、新水路を引けば、収穫量の倍増は十分に現実的な数値です。工事費も設備費も、すべて我が商会が負担いたします。領主様は年貢率の変更を認められるだけで、一切の腹を痛めずに以前以上の収益を得られる……」
マルクがちらりと脇へ目配せすると、技術顧問として控えていたルークが、冷徹な声で後押しをした。
「土地の生産性と労働意欲の相関データに基づいた合理的な試算です。この条件を拒否し、現在の搾取を続けた場合、来年には小作農の三割が餓死または逃亡し、御領地の税収は現在の半額以下に落とし込まれます」
「な……半額以下だと!?」
ルークの淡々とした脅しに近い分析に、領主の顔色が青ざめた。
「待ちなさい! このような怪しげな北領の商人どもの口車に乗るなど――」
目代が慌てて制止しようとしたが、マルクはにっこりと笑ってそれを遮った。
「監察官様。領主様の収益が増えれば、王都へ納められる上納金も当然、増額できますよ? それとも、監察官様はこの領地がさらに貧困し、王都への報告が滞ることをお望みで?」
「う……ぬぐっ……」
王都への面目と実利を引き合いに出され、目代は言葉を詰まらせて引き下がるしかなかった。
自腹を切らずに収穫が増え、王都への面目も立つ。強欲な領主にとって、断る理由はどこにも残されていなかった。
「……よ、良いだろう! マルク商会の投資を受け入れ、今回の作付けに限り年貢率を五割とする! ただし、言った通りの成果が出なければ全員打ち首だぞ!」
「ありがとうございます!」
アルノが深く頭を下げ、後ろに控えていた小作農たちから歓声が上がった。絶望に沈んでいた彼らの瞳に、初めて己の手で未来を勝ち取った誇りが灯っていた。
(第一段階クリアね……)
私は伏せた視線の先で、ルークと静かに視線を交わした。
外からの仕組みと、内からの意志。二つが噛み合わさった瞬間だった。




