第80話 歪みの元凶
領主館の応接室に通されると、肥満体のハルシュタット領主が、豪勢だが手入れの行き届いていない革椅子に深々と腰掛けていた。
その傍らには、王都の紋章が刻まれた上着を着た男が立っている。王都から派遣されている目代(地方監察官)だ。二人の前には豪華な酒杯が置かれ、領民の惨状とは対極の退廃的な空気が漂っていた。
「ほう……北領のマルク商会か。わざわざこんな山奥まで何の用だ?」
領主が億劫そうに酒杯を傾ける。
商人マルクは揉み手をしながら、老練な笑みを浮かべて一歩前へ出た。
「領主様、本日はハルシュタット領のさらなる繁栄のための『投資』のお話に参りました。我が商会が全額出資し、鉱山の害水処理と麓の水路改修を行わせていただきたいのです」
「……資金を全額出すだと?」
領主が不審そうに目を細めた。マルクは滑らかに言葉を重ねる。
「ええ。領主様の懐は一切痛ませません。その代わり、工事後に増産される鉱物資源と農産物を、我が商会へ優先して格安で卸していただきたいのです。領主様は指一本動かさず、税収と設備を手に入れられる……悪くないお話でしょう?」
「費用ゼロで税収が増える」という言葉に、領主の目が露骨な欲で輝いた。
「ふむ……悪くないな。費用を出さずに済むなら――」
「待ちなされ、領主様」
それまで沈黙していた王都の目代が、低い声で割り込んできた。冷ややかな視線が、マルクの背後に控えいていた私とルークへ向けられる。
「北領の商人が、なぜ見返りの不確かな他領の設備にそこまで金を投じる? 裏で何か良からぬ企みでもあるのではないか」
目代の言葉に、領主がハッと我に返ったように眉をひそめる。
(やはり、王都の目代が裏で糸を引いて吸い上げているのね……)
私は伏せた目の奥で、目代の品定めをするような視線を冷静に受け止めた。ルークもまた、無表情のまま微動だにしなかった。
「お戯れを、監察官様」
マルクは動じず、商人の軽薄さを装って笑った。
「北領はいまや空前の建築・開発ラッシュでしてね。上質な石炭と金属が喉から手が出るほど欲しいのです。買い付けの権利さえ押さえられれば、投資額など一年で回収できますよ」
目代はなおも疑わしそうに私たちを睨んでいたが、利権と数字の整合性に反論の糸口が見つからないようだった。
「まあよい。詳しい条件は後日書類で確認する。下がれ」
館を辞した私たちは、集落へと向かう馬車の中で小さく息を吐いた。
「あの暗愚な領主だけなら容易いですが、目代が余計な知恵を注ぎ込んでいますね」
ルークが淡々と言い放つ。
「ええ。上からの変革だけでは、目代に潰されるか骨抜きにされるわ。……だからこそ、内側からの力が要る」
私たちは街道脇の荒れた畑で馬車を止めさせた。
向かったのは、先ほど見かけた泥だらけの若者――小作農たちのリーダー格である青年のもとだった。
「何の用だ、お偉方」
青年は折れた鍬を傍らに置き、警戒心剥き出しの鋭い目で私たちを睨みつけた。
「俺たちを笑いに来たのか? それとも、また新しい取り立ての検分か」
「どちらでもないわ」
私が静かに答えると、ルークが歩み出て、持ち込んできた小さな羊皮紙を青年の前に提示した。そこには難解な数式ではなく、誰にでも分かる単純な図と数字が描かれていた。
「君たちの名前は?」
「……アルノだ」
「アルノ君。君たちがいくら血の汗を流しても報われないのは、君たちの怠慢ではなく『七割』という年貢率の仕組みそのものが壊れているからだ」
ルークは指先で羊皮紙の数字を叩いた。
「見なさい。今の君たちは絶望し、最低限の50しか生産していない。領主の取り分はその7割で『35』だ。だが、もし年貢が5割に下がったらどうだ?」
アルノは怪訝そうに数字を見つめた。
「5割になったところで……俺たちの苦しみが半分になるだけだろ」
「違う」
ルークの声に、強い力がこもる。
「年貢が5割になれば、作れば作るほど君たちの手元に食料が残る。やる気を取り戻した君たちが150を生産すれば、君たちの手元には『75』が残り、領主の取り分も『75』になる。……気づかないか? 年貢率を下げた方が、領主の懐に入る絶対量は以前の二倍以上になるんだ」
アルノが息をのんだ。
「領主が欲しいのは『率』という威厳ではなく『量』という利益だ。この数値を突きつければ、あの暗愚な領主ですら拒否する理由を失う」
「そんなこと……俺たちが言ったって、聞き入れるわけが――」
「一人で言いに行けとは言っていないわ」
私がアルノの目を見つめて語りかける。
「商人マルクが『資材を全額出す』という蜜を領主に差し出すタイミングで、君たちが小作農全員の署名を持って直訴するの。そうすれば、目代も領主も断れない」
アルノの手が、握り締められたまま震えていた。
絶望に諦めかけていた瞳の中に、知恵という火種が投じられ、激しい情熱の炎が燃え上がり始めていた。
「俺たちに……奪われたものを取り戻すチャンスをくれるのか」
「与えるんじゃないわ。自分たちの手で掴み取るのよ」
泥に塗れたハルシュタットの地で、逆転のための小さな、しかし確固たる芽が吹き出そうとしていた。




