第79話 商人という名の盾
ハルシュタット領の境界を越えると、空気の匂いが一変した。
北領の瑞々しい土と風の香りとは異なり、鼻を突くのは湿った金物と腐敗した草の匂いだった。
街道沿いを流れる川は赤茶色に濁り、川底の石には不気味な沈殿物がこびりついている。
「……酷い有様ですね。上流の鉱山から排出された硫化物が、何の処理もなくそのまま流し込まれています」
馬車の小窓から川面を覗き込んだルークが、眉をひそめて呟いた。手元の羊皮紙には、すでに現地の水質調査の簡易データが走り書きされている。
商人の従者という体裁を取るため、私とルークは仕立ての頑丈な旅装を身にまとっていた。先頭を行く馬車には商人マルクが乗り、私たちは「水質と土壌の専門技師」という名目で同行している。
馬車が揺れて小さな集落に入ると、農作業をしている人々が見えた。
だが、彼らの手つきには活気がなく、ただ機械的に農具を振るっているだけだった。痩せこけた体に、光のない瞳。私たちが通り過ぎても、興味を示すどころか視線を合わせようともしない。
「収穫の七割を奪われるとなると、人間はこうなるのね……」
「ええ。努力と成果が完全に切断された状態です」
ルークが帳面を開き、私に見せるようにページを傾けた。そこには彼らしい整然とした筆跡で、数字の比較表が描かれていた。
「ハルシュタット領の過去三年の平均収穫量と、領主の取り分を試算しました。現在、小作農たちは『頑張ってもどうせ七割奪われる』ため、最低限の生存に必要な分しか生産しようとしません。現在の総生産量を『100』とすると、領主の取り分は『70』です」
「作業効率が最悪の状態で固定化されているのね」
「その通りです。もし年貢率を『五割』に引き下げ、水路の改善で生産効率を上げた場合――小作農の労働意欲は劇的に回復し、総生産量は容易に『200』を超えます。五割の年貢でも、領主の取り分は『100』となり、以前より30パーセントも増収する計算です」
ルークは冷徹な数値を示しながらも、どこか呆れたように息を吐いた。
「七割という数字に固執するあまり、自ら全体のパイを縮小させている。領主側も、己の強欲によって首を絞めていることに気づいていないのです」
「算数ができない領主のせいで、現場が一番被害を受ける……一番質が悪いパターンね」
その時、街道の脇で数人の若者が、壊れた用具を前に途方に暮れているのが見えた。
中心にいるのは、首筋に泥をつけた背の高い青年だ。彼は折れた鍬の柄を固く握りしめ、赤茶けた川を見つめて激しい悔しさを滲ませていた。
「あの青年……他の村人とは少し目が違うわね」
絶望に呑み込まれた大人たちの中で、彼だけはまだ泥の中で抗おうとする尖った光を宿していた。
「ええ。現場で声を上げられる人間がいなければ、どんな優れた計算も絵に描いた餅になります。注視しておきましょう」
馬車は集落を抜け、小高い丘の上に建つ館――ハルシュタット領主の居館へと坂道を上り始めた。
「さあ、リーゼロッテ様、ルーク殿。ここからは商人マルクの出番です」
御者台から振り返ったマルクさんが、不敵に笑ってみせた。
「強欲な領主が泣いて喜ぶような『美味しい投資話』を、たっぷり差し上げてまいりますよ」
私たちは表情を作り直し、商人という名の頑丈な盾を構えて、館の重々しい扉を潜った。




