第78話 ハルシュタットの歪み
北領の執務室に、また一つ新しい資料が持ち込まれた。
「……ハルシュタット領、ですか」
ルークが広げられた羊皮紙に記された紋章を見つめ、静かに呟いた。山間に位置するその小領地は、北領から見れば目と鼻の先にある。
資料を運んできた商人のマルクさんが、神妙な持ちで頷いた。
「ええ。我が商会の行商人が現地から戻ってきたのですが……話を聞くに、かなり深刻な状況です。鉱山からの害水が麓の川へ流れ込み、畑が枯れ果てているとか」
「害水処理の怠慢……典型的な管理不足ね」
私が溜息をつくと、マルクさんはさらに声をひそめて言った。
「それだけではありません。あの領地では、領主が収穫の『七割』を年貢として徴収しているそうです」
「七割!?」
横で控えいていたアルフレッドさんが、珍しく驚きに眉をひそめた。七割という数字は、単なる重税の域を超えている。残りの三割で種もみと冬の食料を確保することなど、物理的に不可能だ。
「ええ。作れば作るほど奪われるため、小作農たちは完全に意欲を失い、畑を放り投げて逃亡する者も後を絶たないようです。結果として領全体の生産量は落ち込み、それを補うために領主はさらに絞り取る……という悪循環に陥っています」
ルークが眼鏡の端を押し上げ、冷徹な分析を口にした。
「労働に対する適切な報酬が約束されない構造では、生産効率が極限まで低下するのは当然の帰結です。自分の懐に入らない作業のために、誰が汗を流すでしょうか」
「酷い話だわ……。今すぐにでも資材を送って助けたいけれど」
私は顎に手を当てて考え込んだ。
東部開拓村の時とは条件が違う。あそこは事実上放棄された無主の地だったからこそ、私たちが直接介入できた。だが、ハルシュタット領には現職の領主が存在する。
「私たちが表立って救援に入れば、ハルシュタット領主から『領地侵犯』と訴えられかねないわね。裏にいる王都の勢力に、絶好の口実を与えることになるわ」
「その通りです、リーゼロッテ様」
ルークが肯定する。
「無能で強欲な領主ほど、自分の権利とプライドだけは過剰に主張するものです。北領の威光でねじ伏せることは容易ですが、それは王都との政治的対立を無用に早めるだけです」
「じゃあ、どうするの? 見過ごすわけにはいかないでしょう?」
私の問いに、ルークとマルクさんが視線を交わした。私は昨日打ち立てた「提携のルール」を思い返し、不敵に微笑んだ。
「……北領の領主として動けないのなら、『一人の商人』として動けばいいのよ」
マルクさんが手を打った。
「なるほど! 北領からの公式な支援ではなく、我がマルク商会による『民間の事業投資と買い付けの提案』という体裁を取るのですね」
「ええ。マルク商会がハルシュタット領の害水処理と水路工事の費用を立て替える。その代わり、再生した農地からの収穫物と鉱山資源の優先買い付け権をもらう……という名目なら、領主も口を挟みにくいはずだわ」
強欲な領主なら、「自分の腹を痛めずに設備が手に入り、収益が増える」という話に飛びつく可能性が高い。
「良い迂回策です」
ルークが手元の帳面を開き、迅速にペンを走らせた。
「僕とリーゼロッテ様は、マルク商会に同行する『技術顧問』として現地に入ります。領主の目をごまかしつつ、現場の小作農たちと接触し、内側から構造を最適化しましょう」
「頼もしいわ、ルーク。表面上はビジネスの取引として、実質的にあの領地を救うわよ」
山あいの重苦しい歪みを正すため、私たちは「民間商人」という盾を携え、ハルシュタット領へのアプローチを開始した。




