第77話 境界を越える打診
東部開拓村への支援から半月が過ぎた頃、北領には目に見える変化が訪れていた。
行商人たちが安全になった東の街道を頻繁に往来するようになり、これまで途絶えていた隣領との交易が少しずつ熱を帯び始めている。北領の市場には、東部から届いたばかりの質の良い薪や干し魚が並び、領民たちの食卓をほんのり豊かにしていた。
そんなある日の午後、私のもとに一通の封書が届けられた。
差出人は、北領の南東に位置する小領地「ハルシュタット領」の境界付近に位置する、いくつかの村の代表たちの連名だった。
「これは……直訴状の類ですか?」
アルフレッドさんが慎重な手つきで手紙を検分し、私に差し出す。
「直訴、というよりは、藁にもすがりたいという打診ね。公式な領主の使者ではなく、村長たちが密かに商人経由で持ち込んできたものだわ」
手紙を広げ、ルークと共に目を通す。
羊皮紙に拙い文字でつづられていたのは、過酷な現状だった。
ハルシュタット領は、代々の領主が王都の奢侈な暮らしを維持するため、領民に厳しい小作料を課している地域だ。特に境界近くの村々は、収穫の七割近くを「地主」と「領主」に二重で搾取され、今年の冬を越すための食糧すら底を突きかけているという。
『東部開拓村が北領の支援で持ち直したと聞きました。どうか、私たちにも生きる術を教えてはいただけないでしょうか』
「切実だな……」
部屋の隅で武具の手入れをしていたテオが、手元を止めて眉をひそめた。
「七割って、冗談だろ。そんなの飢え死にしろって言ってるようなもんだぜ」
「ですが、これは東部開拓村の時とは条件が決定的に異なります」
ルークが静かだが、重い声で指摘した。
「東部開拓村は王都が放置した『無主の開拓地』でした。だからこそ、私たちが直接手を差し伸べても法的な問題は生じなかった。……しかし、ハルシュタット領には明確な『領主』と『地主』が存在します」
ルークは眼鏡の位置を直し、冷静にリスクを整理していく。
「他領の領主の許可なく私たちが介入すれば、不当な内政干渉、あるいは『領民の扇動』とみなされます。最悪の場合、カイウス殿下や王都の中央貴族に、北領を攻撃するための格好の大義名分を与えてしまう」
「分かっているわ」
私は溜息を呑み込み、手紙を机の上に置いた。
目の前で苦しんでいる人々がいるからといって、無計画に飛び込めば、守るべき北領の領民まで危険に晒してしまう。社畜時代にも嫌というほど味わった、組織とルールの壁だ。
「ですが……指をくわえて見過ごすわけにもいきません」
ルークの瞳に、かすかな熱が宿る。
「彼らが求めているのは、与えられるパンではなく『自立するためのノウハウ』です。直接的な物資の横流しや現地での作業指導は政治的リスクが高すぎますが、民間市場を通じた『技術情報の提供』や『対等な交易契約』という形なら、法的な隙を作らずに支援が可能です」
「民間を通じた情報と交易……?」
「ええ。ハルシュタット領の地主たちも、収穫量が落ち込めば自分の収入が減ります。北領の商人が『新しい農法による収穫増』を条件に、現地の農家と直接取引の協定を結ぶ形をとれば、領主側も拒否しにくくなります」
ルークの提示した策に、私は思わず膝を打った。
「なるほどね。行政の『支援』として入るのではなく、商人の『ビジネス』としてノウハウを流し込むわけね。それなら領主も『不当な介入』とは言いづらいわ」
「はい。地主の支配構造そのものを解体するには至りませんが、少なくとも村人たちが飢えを凌ぎ、力を蓄える時間稼ぎにはなります」
ルークはそこまで言うと、少しだけ悔しそうに視線を落とした。
「……本当なら、あの過酷な小作契約そのものを破棄させ、彼らを完全な自由農民として解放したいのですが。今の段階でそれを強行すれば、摩擦が大きすぎます」
「焦らなくていいのよ、ルーク」
私は彼の肩にそっと手を置いた。
「一歩ずつでいいわ。まずは彼らが冬を越せるだけの体力をつけること。構造を変えるのは、その先にある次の仕事よ」
ルークは私の手の上に自分の手を重ね、噛み締めるように頷いた。
「……承知いたしました。では、ハルシュタット領の境界村に向けた、商人経由の迂回支援計画を作成します」
北領の周囲に広がる、旧態依然とした世界からのSOS。
私たちは、王都からの目線を巧みにかわしながら、次なる静かな手を打ち出そうとしていた。




