第75話 自立の種
翌朝、東部開拓村の畑には、昨日までの殺伐とした気配が嘘のように清々しい空気が満ちていた。
整地された黒土の畝の前に、バドをはじめとする村人たちが集まっている。その手には、北領から持ち込んだ耐寒性大麦の種もみが入った麻袋が握られていた。
「種をまく深さは、指の第二関節くらいよ。浅すぎれば鳥に食べられるし、深すぎれば芽が出にくくなるの」
私が実際に土を少し掘って種を落としてみせると、村の若者たちが真剣な眼差しで手元をのぞき込んできた。
「まき終えたら、上に薄く燻炭と藁を敷き詰めます」
ルークが脇から補足する。
「これで地面の温度を保ち、冬の冷え込みから芽を守ります。自然の保温効果を利用した簡易的な温床処理です」
「ただ種を放り投げて祈るだけじゃダメなんだな……」
バドが感心したように呟き、不器用な手つきで丁寧に種を土へ埋めていく。
作業は昼前には順調に終わり、畑一面に整然とした畝と藁の層が広がった。これなら、本格的な冬が来る前にしっかりとした根を張ってくれるはずだ。
午後からは、村の広場で「管理の手法」についての講習を行った。
ルークが持ち込んだ小さな黒板を木箱の上に立てかけ、村の子供たちや若い大人たちを集める。
「物資や収穫物をただ消費するだけでは、いずれ破綻します。重要なのは、残量と消費の速度を数値で把握することです」
ルークは木炭を使い、板に分かりやすい記号と数字を書き走らせた。
「文字や計算が苦手でも構いません。この縦の線が出荷や使用、横の線が在庫の目安です。毎日これに印をつけるだけで、冬を越すために必要な1日あたりの分配量がひと目で分かります」
「すげぇ……これなら俺にも読めるぞ!」
手習いをしたことのない村の青年が、目を輝かせて板を見つめる。
ただ食料を与えるだけでは、無くなれば元の貧困に戻ってしまう。自分たちの手で管理し、計画的に使う術を渡して初めて、自立への道が拓けるのだ。
教えるルークの横顔は、いつになく柔らかだった。彼がかつて切り捨てた「数値」を、今は人々を救うための「道標」として扱っている。
夕暮れ時、作業をすべて終えた私たちは、見送りに集まった村人たちの前に立っていた。
「北領の領主様、ルークさん……本当に世話になった」
バドが深々と頭を下げる。その足首の腫れは引き、しっかりと自分の足で地面を踏みしめていた。
「春になったら、芽が出た畑の一番良い麦を北領に届ける。これは支援の返済なんかじゃない、俺たちのプライドだ」
「楽しみに待っているわ、バドさん」
私は笑って頷き、差し出されたゴツゴツとした手を力強く握り返した。
帰りの馬車の中、車輪が心地よいリズムを刻む。
窓の外には、夕闇に溶けていく東部開拓村の影が見えていた。
「……良い顔になりましたね、あの村の人々も」
隣に座るルークが、静かな声でつぶやいた。眼鏡の奥の瞳が、沈む夕日を反射して優しく揺れている。
「ええ。最初はあんなに警戒していたのにね」
「正しく手を加えれば、土地も人も変わる。それを改めて見せていただきました。……ですが」
ルークは視線を手元の帳面へ落とし、少しだけ声を低くした。
「この王国には、あのような場所がまだまだ無数に存在します。地主の過酷な搾取に苦しみ、声を上げることすら諦めている小作村が」
彼の指先が、帳面の端を強く握りしめる。
そこにあるのは、単なる同情ではなく、確かな使命感だった。
「いつか……北領の基盤がさらに盤石になった時は、僕の手でそうした場所へ赴き、彼らを解き放ちたい」
「ルーク……」
まっすぐな彼の言葉に、私は頼もしさと、ほんの少しの切なさを覚えた。
彼が見据える未来の広がりを感じながら、私はそっと彼の手に自分の手を重ねた。
「ええ。その時は、私が全力であなたを送り出してあげるわ」
ルークは一瞬驚いたように私を見つめ、やがて愛おしそうに微笑んだ。
自立の種は、確かに蒔かれた。
私たちの歩む道は、ここからさらに遠く、広く広がっていく。




