第73話 柵の向こうの境界線
私たちは無理に柵を押し通ろうとはせず、村の入り口から少し離れた街道の脇に馬車を止めた。
「押してダメなら引き算よ。警戒されている時に押し入っても、余計に頑なになるだけだわ」
「賛成です。人間は脅威を感じている状態では、合理的な判断ができませんから」
ルークが頷き、テオと手際よく簡易テントを立ち上げ始めた。
エレナは手際よく野外用の鍋を取り出し、干し肉と根菜、それに北領で採れた大麦をたっぷり入れたスープを煮込み始める。しばらくすると、風に乗って香ばしく温かい匂いが村の方へと流れていった。
木突槍を持った男たちは、柵の向こうから私たちの様子を遠巻きに伺っている。だが、その背後から小さなお腹の虫の音が聞こえてきた。腹を空かせた子供たちが、匂いに引き寄せられるように顔を覗かせているのだ。
「テオくん、あの子たちにスープを分けてあげてくれないかしら。無理に話を聞かせようとしないで、ただ渡すだけでいいわ」
「おう、任せとけ」
テオが木彫りの器にスープを注ぎ、柵の手前まで歩いていく。警戒して身を引く子供たちに対し、テオは地面に器をそっと置くと、何も言わずに笑って手を振って引き返してきた。
やがて、一番小さな男の子が耐えかねたように駆け寄り、器を抱えて飲み干した。それを見た大人たちの緊張が、わずかに揺らぐ。
そこへ、先ほど足を痛めていた代表の男が、引きずるように歩いてきた。
「……何の真似だ。食べ物で買収するつもりか」
「買収だなんて、そんな大層なものじゃないわ」
私はスープの入った器を手に立ち上がった。
「お腹が空いている時に難しい話をしても意味がないでしょう? 私たちはただ、自分たちの昼食を作っていただけよ」
男は黙って私を見つめた後、ため息とともに力なく地面に腰を下ろした。限界だったのだろう、痛む右足をかばう手がかすかに震えている。
「……バドだ。この村のまとめ役をやっている」
「私はリーゼロッテ。こちらは分析担当のルークよ」
ルークが迷いなくバドの前にしゃがみ込み、持ち込んだ鞄から薬草軟膏のつまった壺を取り出した。
「バドさん、失礼します。靴を脱いでいただけますか」
バドが拒絶する間もなく、ルークは手際よくズボンの裾を捲り上げた。足首は赤黒く腫れ上がっている。
「痛み止めと抗炎作用のある軟膏です。患部を冷やしながら圧迫固定します」
エレナが差し出した清潔な布を使い、ルークは手際よく包帯を巻いていく。バドは痛みに顔を顰めながらも、ルークの手つきの無駄のなさに驚いたような目を向けていた。
「手慣れてやがるな……。あんたら、本当に王都の役人じゃないのか」
「役人なら、こんな泥臭い場所で人の足を診たりしませんよ」
ルークが冷ややかな、しかし確かな事実を告げる。
「王都の計画が失敗したのは、現場の数値を無視して卓上の理論だけを押し付けたからです。私たちは、この土地の本当の状況を知りに来ました」
バドは包帯を巻かれた足元を見つめ、静かに吐き捨てた。
「あの役人ども……『酸性を抑える』とか言って、大量の石灰を売りつけてきやがったんだ。言われた通り撒いたら、収穫が増えるどころか土がカチカチに固まって、何も育たなくなっちまった。おまけに石灰の代金はツケだと言って、毎年取り立てにきやがる」
(なるほど……典型的な間違った土壌改良ね)
私は地面の土をひとつまみ拾い上げ、指先で丸めてみた。ねっとりと固まり、水分が抜けない。
「最適化」の視点を働かせると、土の構造がはっきりと見えてきた。
「バドさん。この土地はもともと粘土質が強いのよ。そこに知識もなく大量の石灰を混ぜたら、セメントみたいに固まってしまうのは当たり前だわ」
「セメント……?」
「要するに、土の息を止めてしまったの。必要なのは石灰じゃないわ。土の隙間を作るための大量の腐葉土と、水はけを良くする排水溝よ」
バドが目を見開いて私を見た。
「あんた……見ただけでそれが分かるのか?」
「前世――いいえ、北領で何度も土と向き合ってきたから分かるのよ。私たちが連れてきた馬車には、その土を戻すための腐葉土と、正しい手順が積んであるわ」
私はバドに向かって、まっすぐに手を差し伸べた。
「押し付けはしないわ。どうするかは、バドさんたちが決めて」
バドは痛む足を押さえながら、差し出された手と、馬車に積まれた大量の資材を交互に見つめていた。




