第71話 次なる地図
第2部(貧村救済・王都対決編)の開幕です。
朝露の残る庭から、薪を割る乾いた音が規則正しく響いてくる。
賑やかだった感謝祭の翌朝。広場の撤収作業は昨夜のうちに自警団と若者たちが終えており、街は拍子抜けするほど静かな日常を取り戻していた。
執務室の窓を開けると、冷たく澄んだ秋の空気が流れ込んでくる。
「朝茶をどうぞ、お嬢様。祭りの疲れは残っておられませんか」
アルフレッドさんが置いてくれたカップから、ハーブの香気がふわりと立ち上る。
「ありがとう、アルフレッドさん。ぐっすり眠れたから、すっかり元気よ」
お茶を一口啜ったところで、静かなノックとともにルークが入ってきた。腕には、いつもの書類束ではなく、少し年月の経った羊皮紙の地図を抱えている。
「おはようございます、リーゼロッテ様。早朝の見回りと、各地区の在庫確認を終えました」
「お疲れ様、ルーク。相変わらず仕事が早いわね」
ルークは私の向かいの椅子に腰を下ろすと、抱えていた地図を机の上にそっと広げた。北領の境界線の外側――東側の山間部に、赤いインクで小さな丸がいくつかつけられている。
「祭りが無事に終わり、領内の循環システムも安定期に入りました。そこで……一つ、ご相談したい件があります」
彼の指先が指し示したのは、北領の東に隣接する「東部開拓村」と呼ばれる地域だった。
「ここは……たしか、数年前の開拓事業が途中で座礁した場所ね?」
「ええ。岩盤が多く、冬の寒気も厳しい土地です。当時の王都の計画があまりに杜撰だったため、送り込まれた開拓民たちはろくな支援も受けられず、今や半ば孤立した貧困地帯となっています」
ルークの声は淡々としていたが、地図を見つめる眼差しには、どこか固い色があった。
「……実は、僕が以前いた研究機関で、最初に破棄された不採算地域のデータがここでした。数値だけで『価値なし』と切って捨てた時の感覚が、ずっと胸に残っていたのです」
彼が静かに言葉を区切る。効率と数字だけで判断していた頃の自分に対する、微かな悔恨が透けて見えた。
「今の北領には、あそこに余剰の種もみと簡易の肥料、そして衛生資材を供給する体力があります。支援を届ければ、冬が来る前にあの村の食料事情を底上げできるはずです」
ルークは私をまっすぐ見つめた。
「ですが、これは北領の直接的な利益には直結しません。領主としての判断に任せます」
私は広げられた地図の赤い丸を指でなぞった。
利益にならないから切り捨てる。そんな理屈で捨てられた痛みを、私は誰よりも知っている。
「任せるも何も、断る理由がないわ」
私が笑うと、ルークは微かに目を見開いた。
「北領のやり方が正しかったと証明されたのなら、次はそれを必要な場所へ届ける番よ。自分の足元だけを固めて満足していたら、私たちがやってきたことの意味が薄れてしまうもの」
「リーゼロッテ様……」
「それに、ルークがずっと気にかけていた場所なら、なおさら行かなきゃダメじゃない」
「なっ……気づいておられたのですか」
珍しく少したじろぐルークの顔が可笑しくて、私はくすりと笑った。
「書類の端に、何度も書き直した計算メモがあったもの。あそこを救うための具体的な試算でしょ?」
その時、執務室のドアが勢いよく開いた。
「おーい、リーゼ! 自警団の用具点検が終わったぞ――って、なんだなんだ? 難しい顔して地図なんて広げて」
入ってきたテオが、机の上の地図を覗き込む。後ろからはエレナも顔を出した。
「東の開拓村の話よ。少し遠征して、向こうの資材と農業の手助けをしようかと思って」
私が説明すると、テオは「なんだ、そんなことか」とあっけらかんと言い放った。
「向こうの連中、相当ひもじい思いをしてるって噂だからな。車輪の頑丈な馬車を二台出してやるよ。警備も俺がつく」
「私も一緒に行きますわ!」とエレナも身を乗り出す。
「衛生面での指導や、衣類の補修なら私にもお手伝いできますもの。困っている方を放っておくなんてできませんわ」
二人とも、迷いなど欠片もない顔で笑っていた。
「みんな……」
ルークが眼鏡の端に手をやり、どこか感極まったように視線を落とした。
「ありがとうございます。……では、早速『東部支援計画』の具体的な行程を作成します」
「ええ、よろしく頼むわね」
北領という小さな点から始まった私たちの改革が、ついに外の世界へと線を伸ばし始める。
新しい風が、執務室の窓を優しく吹き抜けていった。




