第40話 小さな背伸び
夜、静まり返った館の書斎から、小さな灯りが漏れていた。
私が巡回がてら覗き込むと、そこには泥で汚れた大きな手を震わせ、必死にペンを握るテオの姿があった。
その横では、アルフレッドさんが根気強く算盤と羊皮紙の使い方を教えている。
「……くそっ、この『九』って数字、どうしても歪むな」
「テオ殿、焦る必要はありません。文字も計算も、現場の作業と同じで繰り返しの積み重ねでございます」
テオの羊皮紙には、稚拙ながらも必死に練習した数字と、昼間の現場で運び込んだ「石材の個数」が几帳面に記録されていた。
「テオくん」
声をかけると、テオは跳ね起き、慌てて手元の書類を隠そうとした。
「リ、リーゼ! いや、なんでもねえんだ! ただ、その……」
顔を赤くして言葉を詰まらせるテオに、私は歩み寄り、羊皮紙を優しく手に取った。
「石材の搬入数と、作業員の人員配置ログね。……すごく見やすいわ。現場の人間が書いた正確なファクトほど、経営において信頼できるデータはないのよ。助かるわ、テオくん」
「……本当か?」
「ええ。あなたが現場を固めてくれるから、私は安心して次の計画を立てられるの」
私が微笑むと、テオは照れくさそうに頭を掻き、力強く頷いた。
「おう! 俺、もっと勉強して、絶対にリーゼの足引っ張らない現場監督になってやるからな!」
甘酸っぱい憧れを原動力に、まっすぐに背伸びをする少年。その力強い成長が頼もしかった。
そこへ、控えめにドアを叩く音が響き、ルークが入ってきた。彼の手には、厳重に封緘された一通の手紙が握られている。
「リーゼロッテ様、夜分遅くにすみません。……王都の陰で僕を支援してくれている親戚から、極秘の物流データが届きました」
「王都のデータ?」
ルークが広げた羊皮紙には、周辺領地を往来する商人たちの通行ルート、各関税の税率、そして季節ごとの主要物資の価格推移が克明に記録されていた。
ルークが命がけで築いてきた、貴重な「情報ネットワーク」だ。
「北領の南にある街道は、王都の重税を嫌う中小の商人たちが密かに迂回路として使っています。もしこの北領の道路が完成し、独自の『低関税マーケット』を開設すれば、彼らは一斉にこちらへ流れ込んでくるはずです」
「完璧な市場調査のデータね」
私はルークがもたらした情報に目を通し、不敵な笑みを浮かべた。
「現場の施工を支えるテオの力と、ルークが持ち込んだ広域データ。二つの車輪が揃ったわ」
単なるインフラ整備はこれで終わりだ。
ここからは、北領へ人・物・金を呼び込む「定期自由市場」の構築へと移る。
最果ての極貧領地が、周辺経済圏の中心へと生まれ変わる準備は整った。




