第32話 補佐官の憂慮
中央財務官バルトによる査察が始まってから、三日が経過した。
「……ここにある三年前の支出データと、今回のコスト削減実績の突合が終わっていません! これでは検収を認められませんね!」
領主館の執務室で、バルトが山積みの帳簿の一角を叩く。彼は重箱の隅をつつくような細かい不備を指摘し、こちらの作業の手を止めさせようと躍起になっていた。前世でも納期直前に現れる、あら探しのためだけに送り込まれた仕様監査官そのものだ。
「そのデータなら、こちらの別冊ファイルに全てインデックス化して紐付けてありますわ。バルト様がご覧になっていたのは、旧システムの古いフォーマットです」
私は睡眠時間を削って作成した補足資料を、迷いなく机に差し出した。
バルトは「くっ……」と顔を歪め、再び悔しそうにページをめくり始める。
前世のデスマーチで培った監査対応ノウハウのおかげで、ロジックの防衛線は完璧だった。けれど、この世界の私の身体は、相変わらず体力底辺の「病弱」という致命的な初期バグを抱えたままだ。連日の徹夜と緊張感が、確実に肉体を蝕んでいた。
夜遅く、ようやくバルトが部屋へ引き揚げ、執務室に静寂が戻った瞬間。
張り詰めていた糸が切れ、急激な立ちくらみが私を襲った。視界がぐにゃりと歪み、床が迫る。
(あ、まずい。完全にキャパシティを超え――)
倒れる、と思った瞬間、確かな力で身体を抱きとめられた。
「……お嬢様! しっかりしてください!」
アルフレッドさんの、これまでに聞いたこともないような焦燥を含んだ声が耳に届く。彼は私の身体を近くのソファへ慎重に横たわらせると、すぐに温かい毛布を掛けた。
「すまないわ、アルフレッドさん。少しタスクを詰め込みすぎたみたい……」
私が弱々しく笑ってみせると、老執事はいつも崩さない鉄の表情を歪め、ひどく痛ましそうな、そして怒りを含んだ目で私を見つめた。それは主への忠誠だけでなく、年の離れた愛娘の無茶を案じるような、不器用で深い愛情の眼差しだった。
「リーゼロッテ様。数字の管理は完璧ですが、ご自身の労務管理が最悪でございます。体力が尽きれば、どれほど優れたシステムも機能停止いたします」
アルフレッドさんは私の前に膝をつき、厳しい口調で、けれどその手で私の冷えた指先をそっと包み込んだ。
「これ以上の無理をなされるなら、私は『補佐官』として、お嬢様の業務権限を強制的に停止いたします。……私に、もう大切な主を失う絶望を味わわせないでください」
かつて北領の改革に失敗し、全てを諦めていた老執事にとって、私は単なる領主ではなく、彼の凍りついた時間を動かしてくれた唯一の希望なのだ。
前世の社畜時代、私がどれだけボロボロになっても、誰も「休め」とは言ってくれなかった。「代わりはいくらでもいる」と使い潰されるだけだった。けれど今、私の健康そのものを「最大の資産」として心から心配してくれる人がいる。
「……分かったわ、有能なマネージャーさん。私の自己管理不足ね。反省するわ」
私が素直に両手を上げると、アルフレッドさんはホッとしたように目元を緩め、「今夜はもう書類を見てはなりません」と、用意していた温かいハーブティーの入ったカップを握らせてくれた。
柑橘系の優しい香りが、疲弊した脳をゆっくりと癒していく。
自身のヘルスケアも経営者の義務。少しだけ歩みを緩めた私は、最強のパートナーの好意に甘え、深く目を閉じた。




