第3話 ディストピアの洗礼
「……これが、私の新しい職場ね」
馬車を降りた私は、目の前の光景を見上げて呆然と呟いた。
そこにあったのは、「領主館」と呼ぶにはあまりにも寂れた、灰色の中世風の建物だった。外壁の石はあちこちが黒ずんでひび割れ、庭だったと思われる場所には雑草が生い茂っている。
「じゃあなお嬢様、俺はこれで!」
御者は私の荷物を地面に降ろすなり、まるで伝染病の巣窟から逃げ出すような勢いで馬車を反転させ、王都の方角へ去っていった。
がらがらと遠ざかる馬車の音を聞きながら、私はひとつ息をつく。
辺りを見回すと、遠巻きにこちらを凝視している数人の人影があった。ボロ布のような服をまとった領民たちだ。その目は一様に落ち窪み、こちらを警戒し、あるいは完全に拒絶している。
(なるほど。前世のブラック企業でも、倒産直前の支店はだいたいこういう空気だったわね)
全員の目が「どうせ何をしに来た」と語っている。
私が革鞄を拾い上げて館の重い木の扉へ歩き出すと、内側からきぃと錆びた音を立てて扉が開いた。
現れたのは、仕立ての古い、けれどシワひとつない衣服をまとった老紳士だった。白髪を綺麗に整え、背筋をすっと伸ばしている。
「ようこそおいでくださいました、リーゼロッテお嬢様。私はこの館の執事をしております、アルフレッドと申します」
老執事は完璧な角度で一礼した。その所作には品格があるけれど、向けられた瞳の奥は氷のように冷たい。
「アルフレッドさんね。よろしく頼むわ」
「ご挨拶の途中で恐縮ですが、お嬢様。最初に一つだけ差し出がましい確認を。本家からは『口減らしの使用人』としてこちらに回されたと聞いておりますが」
遠回しな「お前に命令する権限はない」という牽制だ。
「ええ、その通りよ。実家からは無駄飯食いとして追い出されたわ。だから、私をただの新人スタッフだと思ってくれて構わないわよ」
私のあっけらかんとした返答に、アルフレッドさんはわずかに眉を動かした。もっと泣き言を言うか、令嬢風を吹かせると思っていたのだろう。
「左様でございますか。では、さっそくですが仕事を。案内は省きますので、まずは裏手の井戸から厨房へ、水を十樽ほど運んでいただけますか。病弱な元令嬢には少々酷かもしれませんが」
あからさまな嫌がらせ、あるいは小テストというわけね。
館の若い使用人たちが、物陰から「どうせすぐに泣き出すぞ」という顔でこちらを見ている。
(上等じゃないの。新入社員の洗礼としてはベタな部類ね)
「分かったわ。やってみる」
私は上着を脱いでカバンに押し込み、袖をまくり上げた。
館の裏手に回ると、木製の古びた井戸と空の樽が並んでいた。私は深呼吸をし、目を閉じて「井戸と樽」を強く意識する。
(まずは業務フローの確認。最適化、起動)
【対象:アルトハイム北領主館・第二井戸】
【状態:水質の軽度汚染(泥および雑菌)、バケツの昇降機構に摩擦抵抗大】
【最適化プラン:滑車部に油の塗布を推奨。水は使用前に必ず煮沸すること。必要魔力量:微小】
視界に浮かぶ水色の文字データを見て、私は小さくガッツポーズをした。
「やっぱりね。水が濁っているのは構造のせいじゃなくて、ただのメンテナンス不足よ」
近くに落ちていた錆びた器具用の油を見つけ、滑車に数滴垂らす。それだけで、ロープを引く重さが劇的に軽くなった。バケツを引き上げると、やはり少し泥が混じっている。
(これは後でまとめて煮沸の仕組みを作らなきゃ。まずはタスクの消化よ)
樽に水を満たし、両手で抱え上げる。
重い。前世のオフィスでウォーターサーバーのボトルを交換していた時とは比べものにならない重量だ。足がふらつき、冷や汗が流れる。今の私の身体は、本当に体力が底辺なのだ。
「くっ……これくらい、前世の連続徹夜に比べたら……!」
歯を食いしばり、一歩ずつ厨房へと樽を運ぶ。往復するうちに、手のひらにはマメができ、ドレスの裾は泥で汚れた。
三往復目を終えた時、厨房の入り口でアルフレッドさんが腕を組んで立っていた。その表情から、先ほどの冷徹な余裕が少しだけ消えている。
「本当に、お一人でやられるとは。滑車の音も随分と軽くなっていたようですが」
「道具は手入れして使うものよ。それとアルフレッドさん、この水、料理に使う時は必ず一度沸騰させて。領民の元気がなくて病気がちに見えるのは、この水のせいもあるわ」
水を運び終え、息を切らせながら私が告げると、老執事は目を見開いた。
「……それを、どなたに教わったのですか?」
「私の勘よ。さあ、次のタスクをちょうだい。私、サボる人間は嫌いなの」
汗を拭いながら私が笑うと、アルフレッドさんはしばし沈黙し、それから今日一番深い一礼をした。
「失礼いたしました。リーゼロッテ様。……どうやら私は、本家からの評価を鵜呑みにしすぎていたようです」
老執事の瞳の氷が、ほんの少しだけ溶けた音がした。




