第16話 老執事の遺産
「リーゼロッテ様、少々お時間をよろしいでしょうか」
収穫祭の熱気が冷め止まぬ翌日の夜、アルフレッドさんが館の執務室にやってきた。その手には、これまで見たこともない、重厚な革張りの古いファイルが抱えられている。
「ええ、もちろんよ。ちょうど次の事業計画を練っていたところだから」
私が羽ペンを置くと、アルフレッドさんは机の上にそのファイルを静かに置いた。ページを開くと、そこには北領の気候データ、過去の治水計画、そして詳細な地質調査の記録が、驚くほど緻密な文字で書き込まれていた。
「これは……あなたが書いたの?」
「はい。……三十年前、私がまだ若く、王都の高等学院を卒業して間もない頃にまとめたものです」
アルフレッドさんは自嘲気味に、ふっと目を細めた。
「かつて私も、この荒廃した北領を自分の知恵で救おうと大志を抱いておりました。ですが、本家の中央貴族どもにとって、ここは単なる『税を搾り取るための装置』に過ぎなかった。いくら私が改革を訴えても、予算は削られ、計画は握りつぶされ……最後には無能な前領主が送り込まれ、すべてが瓦解しました」
老執事の静かな言葉の裏に、底知れない無念と諦めが滲んでいた。
「私は、この領地と一緒に死ぬつもりでおりました。ですが、あなた様が来られた。私がどれだけ足掻いても変えられなかった現場を、あなたは数字とロジック、そして圧倒的な行動力で、わずか数週間で変えてしまわれた」
アルフレッドさんは椅子の横に立ち、深く、深く頭を下げた。
「リーゼロッテ様。私の過去の失敗、そしてこの世界の貴族たちの政治的な立ち回り、そのすべての知識をあなた様に捧げます。どうか、私にあなたの『補佐官』としての椅子をいただけないでしょうか」
心強い言葉だった。前世でも、現場の歴史と過去の失敗事例をすべて頭に入れているベテラン社員の存在は、プロジェクトの成否を分ける最大のキーパーソンだった。
「喜んで、アルフレッドさん。過去の失敗データ(リスク管理)は、次の大改革において最高の教科書よ。あなたという最強のメンターが味方になってくれるなら、これほど心強いことはないわ」
私が手を差し出すと、アルフレッドさんは驚いたように目を見張り、それから嬉しそうにその手をしっかりと握り返した。
「ありがとうございます。では、さっそく指導者としての最初のご進言を。――このファイルを御覧ください」
アルフレッドさんが開いたページには、ある凶悪な数字が並んでいた。
「あと二ヶ月で、この地に凶烈な冬がやってきます。現在の領内の備蓄、および流通ルートを計算したところ……このままでは、領民の約三割が冬を越せずに餓死します」
「三割……?」
私は突きつけられたデータを見つめ、思わず息を呑んだ。
家庭菜園の成功で得た利益など、一瞬で吹き飛ぶほどの、文字通りのデスマーチが目の前に迫っていた。




