第106話 異邦の使者
「動くな! それ以上近付けば、王都駐屯隊の名において射殺する!」
北領と北西山域の境界に設けられた仮設陣地で、緊張でかすれた兵士の怒号が響いた。
矢を番える駐屯兵たちの先にあるのは、黒塗りの頑強な革甲冑を纏った一人の騎兵だった。馬も一般的な軍馬より一回り大きく、過酷な山岳を駆け抜けてきた野性味を漂わせている。王都の兵たちが「魔王軍の使者」と怯えるのも無理はない異異たる風貌だった。
「構えを降ろしなさい」
私は制圧のために前に出ようとしていたレオンハルトの横を抜け、自ら柵の前に立った。
「リーゼちゃん、危ないわ!」
後方に控えていたエレナが息を呑むが、私は静かに首を振り、馬上の使者へと歩み寄った。
間近で見るその姿は、角も鱗もない、ただ陽に焼けた肌と筋肉質な体躯を持つ「人間」だった。長旅の疲労と寒さで唇を青くし、だがその瞳には誇りと警戒の光を宿している。
私は左手を胸に当て、北領の正式な礼節をもって一礼した。
「北領主代理、リーゼロッテ・フォン・アルトハイムです。遠路はるばる過酷な山道を越えてのお越しを歓迎いたします」
使者は意外そうに目を見開いた。王都の使節や貴族から向けられる蔑みや恐怖の叫びではなく、対等な人間としての礼節を向けられたからだ。
「……我らは、北西の山岳を束ねる将軍ヴァレリアの全権使者だ。貴殿らが我らを『魔族』と蔑み、刃を向ける覚悟なら、相応の報いを受けることになるが」
使者の声は掠れていたが、筋の通った威厳があった。私は微笑みを絶やさず答える。
「いいえ。私たちはあなた方を『異邦の民』――過酷な地で誇り高く生きる隣国の方々として認識しております。戦う意思などございません」
そう言うと、私は後ろに控えていたテオに合図を送った。テオと給仕の者が急ぎ運んできたのは、ハルシュタットの鉄鍋で煮込まれた具だくさんの熱いスープと、焼きたてのパンだった。
「まずはその寒さと疲労を癒やしてください。厳しい山越えで体力を消耗されているでしょう」
「……毒でも入っているのか?」
使者が警戒感を露わにすると、テオが「そんな汚いマネ、リーゼがするわけないだろ!」と前に出かけたが、私が手で制した。
私は用意されたお椀からスープをひと匙すくい、使者の目の前で美味しく口に含んでみせた。
「北領の春も冷えますから。温かい食事が何よりの薬ですわ」
使者はしばらく私とスープを交互に見つめていたが、意を決したように鞍から飛び降りると、差し出された器を受け取った。一口、二口とスープを飲み干した瞬間、彼の表情が一気に和らいだ。
「……うまい。こんな温かく、滋味に富んだ湯は……我が故郷でも口にしたことがない」
「ハルシュタットの根菜と、カルナ村の塩で仕込んだ自慢のスープです。干し肉の備蓄も用意してありますわ」
私が穏やかに微笑むと、使者は深く息を吐き、鎧の袖で口元を拭った。そして、先ほどまでの警戒が嘘のように、背筋を正して私に向き直った。
「失礼を詫びる、リーゼロッテ殿。我が将軍ヴァレリアは、この北領で起きている『奪わずに民を肥やす仕組み』を確かめるべく、直々に進軍されている。……単なる奪い合いしか頭にない王都の豚どもとは、まるで違うお方のようだ」
「将軍様にお伝えください。北領は、異邦の民の皆様と『脅迫』ではなく『対等な取引』を結ぶ準備をして待っております、と」
使者は力強く胸を叩いた。
「しかと伝よう。我が将軍も、貴殿のような誠実な指導者との対話を望んでおられるはずだ!」
使者は馬に跨がると、一風の如く北西の街道を駆け戻っていった。その背中を見送りながら、私は不当なラベルを剥がし、対等な関係を築く第一歩の手応えを噛み締めていた。




