第105話 北西の暗雲
ルークへの返書を送り出し、南西への物資供給網を整えていた数日後、北領の静けさは唐突に破られた。
早朝、馬を限界まで走らせてきた王都の伝令が、青ざめた顔で城館へ駆け込んできたのだ。
「大変です、リーゼロッテ様! 北西の山岳国境線を越え、あ、あの『魔王軍』の大軍勢が進軍を開始しました!」
執務室にいたテオが弾かれたように立ち上がる。
「魔王軍だって!? あの北西の山奥に潜んでいるっていう、化け物どものことか!?」
「は、はい! 黒い鎧を纏った不気味な兵たちが、我が国の巡視兵を蹴散らしながら、一直線にこの北領へ向かってきております! 王都の警備隊員たちも恐怖でパニックになりかけていて……!」
伝令の乱れた息と脅えようを見て、レオンハルトが静かに腰の剣柄に手をやった。
「リーゼ、俺が出撃して国境付近で食い止める。王都の駐屯隊を率いれば、足止めくらいは——」
「待って、レオン」
私は机の上の地図を広げ、北西の山岳地帯を指でなぞった。
「落ち着いて。相手は本当に『血に飢えた怪物』なのかしら?」
「え……?」
「北西の山岳地帯は、年間の半分以上が氷雪に閉ざされる過酷な土地よ。以前、ハルシュタットやカルナ村の鉱物データを調べた時に文献を読んだわ。あそこに住む人々は、古くから独自の武芸と高度な鍛冶技術を持つ異部族のはずよ」
私は伝令を見つめ、静かに問いかけた。
「彼らは村や街を焼き払ったり、民を無差別に殺戮しながら進んでいるの?」
伝令は一瞬言葉を詰まらせ、首を横に振った。
「い、いえ……ただ進路上の見張り小屋を武装解除させて進軍しているだけで、民間人の住処を襲ったという報告はありません」
「やっぱりね」
私は大きく頷いた。
「王都の古い記録では、自分たちの手に負えない北方や山岳の異部族を、恐怖を煽るために『魔物』や『魔王軍』と呼んで差別してきた歴史があるわ。相手は人外の化け物なんかじゃない。寒冷地で鍛え抜かれた、規律ある異国の山岳軍隊よ」
「山岳の軍隊……」
テオが地図を覗き込み、眉をひそめた。
「じゃあ、なんでそんな凄腕の軍隊が、わざわざこの北領に向かってきてるんだ? 俺たちに攻撃を仕かけるつもりなのかな、リーゼ」
「いいえ。いまの時期に動くということは、目的は侵略や破壊ではなく『交渉』よ。この数ヶ月で北領が開発した保温資材やハルシュタットの鉄具、それに安定した食料の噂を聞きつけて、交易の可能性を確かめに来たんだわ」
過酷な冬を越え、過酷な地に生きる人々が必要としているものを、今の北領はすべて持っている。言葉の通じない怪物として恐れるのではなく、正しい理由と背景を読み解けば、相手の意図は見えてくる。
「でもリーゼちゃん、王都の駐屯兵や街の領民たちは『魔物襲来』の噂でパニックになりかけているわ」
エレナが心配そうに身を乗り出す。
「ええ。だからこそ、私たちが毅然としていなきゃ。レオン、駐屯隊には武装解除ではなく『迎撃ではなく出迎えの陣』を敷かせて。過度な威嚇は戦火を招くだけよ」
「……分かった。君の判断を信じるよ、リーゼ」
レオンハルトは力強く頷き、すぐに部屋を出て行った。
「テオ、街の広場や問屋街に高札を出して。『相手は恐ろしい化け物ではなく、北西の交易相手になり得る客だ』と触れ回って落ち着かせて」
「了解だ、リーゼ! 俺に任せておいて!」
テオも即座に駆け出していく。
恐れや偏見で目を曇らせ、武器を構えるのは愚かな選択だ。相手がどんなに恐れられている存在であろうと、正当な理由と対等な対話の準備さえ整えれば、道は拓ける。
私は窓の外、遠く北西に聳える険しい山並みを見つめ、静かに呼吸を整えた。




