第103話 能動の第一歩
「リーゼ、本当に自ら巡回に出るつもりか? 各拠点の報告書なら、駐屯隊の使者を使えば集められるが」
城館の馬車留めで、乗馬用の動きやすいドレスに身を包んだ私を見て、レオンハルトが驚いたように目を細めた。
「書類に書かれた数字も大切だけど、そこに書かれない『空気』は現場に行かないと分からないわ。ルークがいない今だからこそ、私が直接見に行かなきゃ」
私は馬車のステップに足をかけ、振り返って微笑んだ。
「それに、王都から届いた精鋭騎士隊を私一人の護衛だけに留めておくなんて勿体ないでしょう? 巡回に同行してもらえれば、各地の防衛線の確認も同時にできるわ」
「はは、君にそう言われたら断れないな」
レオンハルトが苦笑しながら馬に跨がり、私たちの乗合馬車を前後で挟む形で警備隊が始動した。
最初に訪れたのは、ハルシュタットから運ばれた精製鉄とカルナ村の炭を集積している、城下町外縁の大鍛冶場だった。
響き渡る槌音と熱気の中へ踏み込むと、汗みずくになって働いていた職人たちが、私の姿に驚いて作業の手を止めた。
「り、リーゼロッテ様!? こんな油臭い場所にどうして……」
「こんにちは、アルノさん。新しく導入した水車式の蛇腹送風機、調子はいかが?」
「え……俺の名前、覚えていてくださったんですかい?」
若い鍛冶職人のアルノが、煤のついた顔を真っ赤にして目を見開いた。
「当然でしょう。ハルシュタットの水路工事の時も、一番最後まで現場に残って鉄具の補修をしてくれたもの。手の火傷はもうすっかり良くなったの?」
「は、はい! 北領の薬湯のおかげで、もう傷痕も残りません!」
「良かったわ。でも無理は禁物よ。あなたが倒れたら、この国の誰がハルシュタットの鉄を鍛えるの? 休憩時にはしっかりと水分と塩分を取ってくださいね」
私はそう言うと、持参した果汁入りの塩飴の袋をアルノの手元へ手渡した。
「みんなの分もあるから、切り替えて休んでね。それと、送風機のギア部分の摩耗が早そうなら、カルナ村から届く新しい潤滑油を優先して回すようマルクさんに手配しておくわ」
「〜〜〜っ! ありがとうございます! 俺、死ぬ気で最高の鉄を鍛えてみせます!」
アルノだけでなく、周囲で遠巻きに見ていた親方や職人たちが一斉に声を張り上げた。現場の雰囲気が、一瞬で熱を帯びた歓声に包まれる。
次に回った東部開拓村の物資集積所でも同様だった。
荷揚げの若者たち一人ひとりに「先週生まれた妹さんは元気?」「肩を痛めていたけれど、荷の高さは調整しやすくなった?」と声をかけて回る。
前世の社畜時代、現場の作業員や下請け会社の体調管理と人間関係を潤滑に保つことが、結果として一番事故を防ぎ効率を上げることを嫌というほど叩き込まれていた。私にとっては「仕事の基本」に過ぎない。
だが、領主階級から「口減らし」や「搾取の対象」としてしか扱われてこなかった彼らにとって、自分の名前と状況を完璧に把握し、心から体調を気遣う領主代理の姿は、あまりにも衝撃的だったようだ。
巡回を終え、夕暮れの帰り道。馬車の窓から並走するレオンハルトを見ると、彼がおかしそうに口元を緩めていた。
「どうしたの、レオン?」
「いや……君がそうやって理屈抜きで人の心を掴んでしまうところは、昔から無自覚だなと思ってね」
「理屈抜き? 失礼ね、私はただ現場の進捗管理とリスクヘッジをしているだけよ」
私がむっとすると、レオンハルトは愛おしそうに目を細め、首を横に振った。
「管理か。だが君は、たった一言で人の心そのものを熱くさせてしまう。職人たちも開拓民も、みんな君の一言で『この人のために一肌脱ぎたい』と目を輝かせていただろう?」
「……それは、みんなが優しいからよ」
「違うよ、君が真っ直ぐだからだ」
レオンハルトは手綱を握り直し、夕日に照らされた街並みを愛おしそうに見渡した。
「王都の貴族たちは、権力や金で人を縛れると思っている。だが、今日君が撒いた種の前には、どんな権勢も意味をなさない。北領の強さは、あの現場の熱気そのものだ」
自ら動くことで掴んだ、現場の確かな手応え。
計算書の上だけでは分からない人々の誇りと熱気が、私の能動的な一歩によって、さらに固く結びつき始めていた。




