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父に会いに

父の退院後、しばらくして落ち着いた頃だった。


二人でいつものように食事をしていた帰り道。

取り立てて特別な話をしていたわけでもなく、静かな時間が流れていた。


ふと彼が口を開く。


「……今度さ。」


言いかけて、少しだけ言葉を探すように間を置く。


「一度、父さんに会ってみる?」


軽い調子を装っているけれど、声は少し硬い。


彼女は彼の横顔を見る。


それが、どれだけ勇気のいる言葉なのか分かる気がした。


彼は少しだけ視線を逸らす。


「……嫌なら、いいけど。」


小さく付け足す。


彼女は首を振る。


「ううん。」


そして小さく笑う。


「会ってみたい。」


彼は小さく息を吐く。

ほっとしたようにも見えた。


少し歩いてから、彼が言う。


「母さんは……その、今度でいいかな。」


言い訳するように、少し早口になる。


「父さんだけ。」


彼女は何も聞き返さず、ただ頷いた。


「うん。」


迷いはない。


彼との境界線の内側ーー


家族に会うとは

そういうことだと分かっている。


嬉しさもある。

不安もある。


彼の母親のことが

気にならないはずはない。


ただ母親がどのような人であっても


彼は彼である。


不器用で愛おしい人。


彼女は自分からそっと手を繋いだ。


彼は強くは握らない。


大切なものを

そっと包み込むように彼女の手を握る。


この温もりをいつまでも感じていたいーー


そう思った。




数週間後ー


休みの日の駅は混み合っている。


改札を抜ける。


ホームの空気は少し冷たい。


二人の初めての遠出なのに、

彼はほとんど口をきかない。


新幹線の中でも、どこか落ち着かない様子だ。


窓の外を見ているようで、見ていない。


彼女はそれに気づいていた。


でも何も聞かない。


ただ隣に座る。


それだけでいいと知っている。



新幹線を降りる。


乗り換えをして、電車に揺られる。


景色が少しずつ変わっていく。


彼の故郷に近づいている。


彼は無意識に背筋を伸ばす。


手をポケットに入れ、また出す。


落ち着かない。


彼女はそれに気づくが、何も言わない。


ただ隣を歩く。


歩幅を合わせて。



彼は考えていた。


ここまで自分の内側を見せて、

彼女が去っていってしまったらと。


そんな心配をする必要がないくらい

彼女が自分を好きでいてくれているのは分かっている。


簡単には壊れないくらい

関係は強くなっている。


でもーー


ここから先はもう引き返すことができない。


傷つかないように距離を取ることは

もはやできなくなってしまった。


手放すことなどできないからだ。


もし家族という境界線の内側を

彼女が窮屈に感じてしまったら?


父と上手くいかなかったら?



…母が彼女を傷つけるようなことをしたら?



足は実家へ向かっているのに

心は引き返そうとしてしまう。


あの角を曲がれば着いてしまう。


こんなことを考えている自分が嫌になる。


隣を歩く彼女を見る。


彼女は自分の歩幅に合わせてくれている。


景色を見ながら穏やかに歩いている。



彼女のことが好きだーー



自分の迷いが馬鹿馬鹿しくなるぐらい。


こんな素敵な人が

自分を選んでくれた。


何も持たない不器用な自分を。


もう逃げることはしたくない。


不安はある。


それでもーー


彼女と一緒にいる未来を選びたい。


彼は少し呼吸を整えて

家の前で立ち止まる。


彼女の目をじっと見て言う。


「いこうか。」


たったそれだけの言葉。


けれど、父の言う“自分で考えてる顔”だった。



家に入ると、

父は穏やかだった。


以前より顔色もいい。


彼女を見ると、静かに笑う。


「息子が世話になってます。」


冗談めかした声。


彼女は落ち着いて答える。


「こちらこそ、いつも支えてもらっています。」


誇張も、へりくだりもない。


対等。


父は彼を見る。


その視線に、前より柔らかさがある。


「変わったな。」


ぽつりと。


彼は少し照れる。


「そうか?」


「落ち着いた。」


それだけ。


でも十分。



食卓は穏やかだ。


無理な質問もない。


父は彼女に聞く。


「仕事は続けるんだろう?」


同棲を示唆する空気。


彼女は彼を見る。


彼が先に答える。


「そのつもり。場所はまだ考え中だけど。」


自然に“二人の未来”を含める。


逃げない。



そのとき。


玄関の音。


想定していなかった足音。


彼の肩が一瞬、硬くなる。


彼女だけが気づく。



母が立っている。


想像通りの目。


まず彼を見る。


次に彼女を見る。


一瞬で値踏み。



「あなたが。」


声は穏やかに聞こえる。


でも棘がある。



彼が先に立つ。


紹介する。


「真剣に交際している、ユイさんです。」


短い。


でもはっきり。



母は笑う。


「最近、冷たいのよ。この子。」


冗談のように言う。


彼女を見る。


「あなたの影響かしら?」


試す言葉。


以前の彼なら、曖昧に笑った。


否定もしない。


その場をやり過ごした。


でも今は違う。


「違うよ。」


静かに言う。


強くはない。


でも揺れない。


「俺が考えてるだけ。」


母の視線が鋭くなる。


「この子はね、昔から流されやすいの。」


彼女に向けた言葉。


“騙されてる”の延長。


空気が張る。


彼女は反論しない。


微笑みもしない。


ただ、まっすぐ母を見る。


「流されていません。」


柔らかい声。


でも曖昧ではない。


「一緒に考えています。」


対立しない。


でも下がらない。



母が一瞬、言葉を失う。


感情的にぶつかれば戦えた。


でもこれは戦いにならない。


父が口を挟む。


「二人で決めるなら、それでいい。」


穏やかに決着した。


母は小さく鼻で笑う。


「まあ。」


肩をすくめる。


「ずいぶん大人になったのね。」


彼を見る。


「誰かさんの影響で。」


視線は彼女に向く。


「でもね。」


穏やかな声のまま続ける。


「恋愛と生活は別よ。」


一瞬の間。


「そのうち分かるわ。」



彼が立ち上がる。


椅子が小さく音を立てる。


「帰る。」


短く言う。


母が眉を上げる。


「もう?」


「せっかく来たのに。」


彼は答えない。


彼女の方を見る。


「行こう。」


それだけ。



母が後ろから言う。


「逃げ足だけは昔から早いのよ、この子。」


笑っている声。


でも冷たい。



彼は振り返らない。


玄関で靴を履く。


彼女が軽く頭を下げる。


「今日はありがとうございました。」


父が静かに頷く。


「気をつけて。」



ドアが閉まる。


外の空気が少し冷たい。


彼は深く息を吐く。



帰り道。


彼は黙っている。


母の言葉は刺さった。


ゼロではない。


でも。



駅までの道を歩く。


夕方の空気が少し冷たい。


人通りは多くない。


彼は何度か何か言いかけて、やめる。


言葉が見つからない。



ふと。


彼の手が彼女の手に触れる。


偶然のような一瞬。


でもそのまま離れない。


指が絡む。


ぎこちない。


慣れていない。


それでも、離さない。


「ありがとう。」


彼が言う。


彼女は首を傾げる。


「逃げなかったから。」


母にも、俺にも。


彼女は静かに答える。


「あなたが逃げなかったから。」


事実だけを言う。


彼は立ち止まる。


彼女を見る。


確信がある目。


「一緒に住もうか。」


逃げる前に、言う。


不安が湧く前に、選ぶ。


これは反発ではない。


母への当てつけでもない。


父の承認に乗った勢いでもない。


彼が、自分で決めている。


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