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不安になっても逃げない

同棲の話は、静かに進み始めた。


物件サイトを並んで見る。


間取りを比べる。


「ここ、日当たりいいね。」


そんな他愛ない会話。


幸せなはずの時間。


でも――


彼の胸の奥に、小さなざわつきが生まれる。




帰り道。


彼は少し無口になる。


彼女は気づいている。


でも、何も聞かない。


ただ隣を歩く。




その夜。


彼からのメッセージは、少し短い。


既読までの時間も、ほんの少し長い。


大きな変化ではない。


でも――


“兆し”。


彼の胸の奥で、声がする。


(本当にできるのか。)


一緒に住むということは、


逃げ場が減るということ。


距離を置く余白がなくなる。


母の声がよぎる。


「あなたは続かない。」


彼は無意識に、少し引く。


返信を後回しにする。


忙しいふりをする。


“熱”を下げようとする。


昔からの癖。



彼女はスマホを見つめる。


既読。


それだけ。


分かる。


ああ、来たな。


この波。


胸は少し痛む。


でも――


追わない。


代わりに、こう送る。


「今日は早く寝るね。おやすみ。」


責めない。


探らない。


寂しさをぶつけない。


でも、消えもしない。


彼はそのメッセージを見て、指が止まる。


(追ってこない。)


以前の恋人たちは言った。


「何かあった?」

「冷たくない?」


その不安が重くて、逃げた。


でも彼女は違う。


静かだ。


でも、離れていない。


その静けさが、逆に刺さる。


(俺、今逃げてるな。)


ふと気づく。


以前なら、


理由を並べて正当化していた。


でも今は違う。


自分で分かる。




翌日。


彼は会いに行く。


約束はしていない。


でも、自分から。


「……ちょっと揺れてた。」


座るなり言う。


彼女は驚かない。


「うん。」


分かっていた顔。


でも、責めない。


彼は視線を落とす。


「近づきすぎると、怖くなる。」


正直に言う。


「うまくできない気がする。」


弱さを出す。


彼女は少し沈黙する。


すぐに抱きしめたりしない。


ただ考える。


「怖いのは分かるよ。」


静かに言う。


「でもね。」


少しだけ笑う。


「私、あなたが完璧にできると思って決めてないよ。」



彼が顔を上げる。


「逃げないでくれるなら、それでいい。」


条件はそこ。


“うまくやること”じゃない。


“向き合うこと”。


彼は息を吐く。


胸の奥が少し軽くなる。


母の声より、

彼女の声のほうが近い。


「昨日、わざと返信遅らせた。」


彼が言う。


小さな告白。


でも大きい。


彼女は少し笑う。


「気づいてた。」


そして続ける。


「私も少し不安になったよ。」



彼は少し驚く。


「……そうなの?」


「うん。」


彼女は頷く。


「でも追わないって決めた。」


穏やかに言う。


「あなたが戻ってくるって思ったから。」



その言葉が、

彼の奥に触れる。


信じられている。


試されていない。


管理されていない。


彼は彼女の手を握る。


今度は迷いがない。


「逃げない。」


短い。


でも本気。



これは克服じゃない。


たぶん、これからも揺れる。


でも――


逃げても戻れる。


そう知った。



二人の間に、

小さな安心が生まれていた。


それは

近づくことを恐れていた彼が、

初めて手にした感覚だった。


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