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一緒にいたい

部屋に入る。


静かな空気。


いつもと同じはずなのに、今日は少しだけ密度がある。


彼女がお茶を淹れる。


湯気がゆっくり立ち上る。


彼はソファに座ったまま、その背中を見る。


“ちゃんと、いてくれて。”


自分が言った言葉が、まだ胸に残っている。



彼女が隣に座る。


距離は拳ひとつ分。


でも今日は、その隙間が遠い。


彼が先に動く。


指先が、彼女の手に触れる。


確認するように。


彼女は驚かない。


そのまま受け取る。


ゆっくりと、指が絡む。


呼吸が近くなる。


キスをする前の、あの静かな時間。


怖さはある。


でも逃げたい怖さではない。


踏み出す前の震え。


それでも、今日は離したくないと思っている。



彼が先に近づく。


額が触れる。


彼女は目を閉じる。


その仕草に、彼の胸が強く鳴る。


“拒まれない”。


それだけで、こんなに安心する。



唇が重なる。


深くはない。


確かめるような、静かなキス。


彼の手が彼女の背中に回る。


少しだけ強くなる。


彼女も、今日は逃げない。


指が彼のシャツを掴む。


“嬉しい”が、ちゃんと出ている。



離れたあと。


二人とも少し息が乱れている。


でも、目は逸らさない。


彼が先に言う。


「……母さんにさ。」


余韻の中で。


彼女は静かに待つ。



「騙されてるって言われた。」


今度は全部言う。


「お前は間違えるって、昔からそうなんだ。」


声は落ち着いている。


でも奥に、昔から刺さったままの棘がある。


彼女は怒らない。


母を否定もしない。


代わりに、彼を見る。


まっすぐ。


「あなたは、間違えてると思う?」


問い返す。


優しく、でも逃げ道を作らない。


彼は考える。


ほんの数秒。


そして、首を振る。


「思わない。」


はっきり。


さっきより強い声。


「じゃあ、それでいい。」


彼女はそう言う。


簡単に。


でも揺れない。



彼の喉が少し詰まる。


「俺、ずっと自分の感情信用できなかった。」


初めての告白に近い。


「好きになるほど、不安になる。」


本音。


逃げずに出した。



彼女は一歩近づく。


額を彼の肩に預ける。


「今は?」


小さな声。


彼は彼女を抱き寄せる。


今度は迷いなく。


「今は……怖いけど、逃げたくない。」


それが彼の現在地。


彼女は微笑む。


「それで十分。」


静かな部屋。


外の音は遠い。


彼は気づく。


母の声より、


父の言葉より、


今いちばん強いのは、


自分の選択だということに。



抱きしめたまま、しばらく動かない。


彼女の呼吸が、ゆっくりと胸に伝わる。


温かい。


急かさない。


試さない。


飲み込まない。


母の前で感じた圧迫とは、まるで違う。



彼は思い出す。


母はいつも、正しさを突きつけた。


役割を与えた。


「あなたはこうあるべき」


愛情がなかったわけではない。


でもそこには常に条件があった。



彼女は違う。


「無理しなくていい」と言いながら、

本当に無理をさせない距離を保つ。


でも逃げもしない。


必要なときは、静かに核心を突く。


「あなたは間違えてると思う?」


あの問いーー


責めるでもなく、甘やかすでもなく。


ただ、彼に返した。


信じているから。



彼は、初めて理解する。


自分が欲しかったのは、

支配でも依存でもなく、


“信頼されること”だった。


ゆっくりと彼女の肩から顔を上げる。


目が合う。


逃げない。


今は、逃げない。


「俺さ。」


声は低く、でも安定している。


「ずっと、誰かと一緒にいるの向いてないと思ってた。」


正直な告白。


「近づくと苦しくなって、離れたくなって。」


彼女は黙って聞く。


評価しない。


急がない。


「でも今は。」


一度、息を吸う。


胸の奥が静かだ。


不安がゼロなわけじゃない。


でも、揺れていない。


逃げる理由より、残る理由の方がはっきりしている。


「これからも一緒にいたいって、思ってる。」


はっきりと言う。


初めて、自分から未来を口にする。


彼女の瞳が、少しだけ潤む。


驚きではない。


待っていたわけでもない。


ただ、ちゃんと受け取った表情。


「うん。」


それだけ。


でもその一音に、全部がある。


彼は続ける。


「安心するんだ。」


少し照れながら。


「包まれてる感じがする。でも、甘やかされてるんじゃない。」


言葉を探す。


「ちゃんと立たされてる感じ。」


彼女が小さく笑う。


「立っててほしいから。」


さらりと言う。


依存しない強さ。


彼はその強さに、さらに安心する。


「母さんとは、真逆なんだ。」


無意識に出た言葉。


彼女は否定しない。


ただ、静かに聞く。


「母さんは、俺を心配してる。でも、信用してない。」


少しだけ苦い声。


「でも君は、信用してくれる。」


それが決定的な違い。


彼女は彼の頬に触れる。


優しく。


「あなたが自分を信用し始めてるからだよ。」


静かな真実。


彼は笑う。


少しだけ、子どものように。


「そうかもな。」


そしてもう一度言う。


今度は確信を込めて。


「一緒にいたい。」


彼女は彼を抱きしめ返す。


強すぎない。


でも、揺れない。


「私も。」



その瞬間。


彼は分かる。


これは逃避じゃない。


反発でもない。


母の否定でもない。


“選択”だと。


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