母の影の中で
病室を出ると、廊下の先に母が立っている。
腕を組み、少し苛立ったような顔。
「先生の話、ちゃんと聞いた?」
第一声がそれ。
おかえりでも、ありがとうでもない。
確認。
管理。
「聞いたよ。」
彼は短く答える。
声のトーンは一定。
昔からそうだ。
母の前では、感情を平らにする。
波を立てないように。
「あなたがいないと私一人で大変なのよ。」
母はため息をつく。
「仕事もあるし、手続きもあるし…」
言いながらも、書類の束を彼に渡す。
自然な動き。
まるで当たり前のように。
彼は受け取る。
断らない。
「分かった。」
その言葉も、ほとんど反射だった。
母は続ける。
「お父さん、あなたのこと気にしてたわよ。」
一瞬、胸が動く。
「そうなの?」
思わず聞き返す。
「当たり前でしょ。長男なんだから。」
そこに優しさはない。
役割。
責任。
期待。
彼は小さく頷く。
昔の自分なら、この言葉で固まっていた。
“ちゃんとしなければ”に戻っていた。
でも今日は違う。
少しだけ、違う。
「でもさ。」
言葉が喉まで上がる。
止めるか?
流すか?
飲み込めば、楽だ。
いつも通りでいられる。
「俺も仕事があるし、全部は無理だよ。」
静かに言う。
責めない。
怒らない。
でも、初めて線を引く。
母の目が鋭くなる。
「無理って何?家族でしょ?」
声が一段高くなる。
廊下に響く。
彼の肩が一瞬だけ強張る。
昔の反応。
でも逃げない。
「家族だよ。」
肯定する。
でも続ける。
「だから来た。でも、全部は背負えない。」
母が黙る。
想定外の返答。
ヒステリックに爆発するかと思った空気が、
一瞬、止まる。
彼は気づく。
母の怒りは、
恐れかもしれない。
一人になる恐れ。
支えが減る恐れ。
でもそれを、
彼が全部受け取る必要はない。
母は小さく舌打ちする。
「昔からあなたは冷たいわね。」
その言葉は刃だ。
彼は昔、それに深く傷ついていた。
でも今は、少しだけ距離がある。
“冷たい”のではない。
“境界を持った”だけ。
彼は言わない。
説明もしない。
ただ静かに言う。
「必要なことはやるよ。」
それ以上は、引き受けない。
母は視線を逸らす。
不満はある。
でも、彼が崩れないと分かると、
それ以上は押してこない。
その瞬間。
彼は理解する。
自分が回避していたのは、
怒られることじゃない。
“飲み込まれること”。
母の感情に。
期待に。
役割に。
彼はスマートフォンを握る。
彼女の存在を思い出す。
あの人は、飲み込まない。
求めるけれど、奪わない。
支えるけれど、背負わせない。
だから、
一緒にいられる。




