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母の苛立ちの奥

廊下の空気が少し落ち着いた頃。


母が何気ないふうに言う。


「そういえば。」


彼は書類を鞄にしまいながら顔を上げる。


「最近、誰かいるの?」


唐突。

でも、狙いは正確。


「……いるよ。」


彼は少し間を置いて答える。


隠さない。


でも、詳しくも言わない。


母の目が細くなる。


「どんな人?」


その問いは好奇心ではない。


品定め。


値踏み。


「普通の人。」


短い返事。


そんな言葉では足りないのは分かってる。


でも母に説明しても、

理解されないことの方が多いと知っている。


母はすぐに言う。


「普通って何?」


口調が強くなる。


「ちゃんとしてる人なんでしょうね?あなた、変なのに引っかかりやすいから。」


その言葉。


軽く言っているようで、

深いところを刺す。


彼は気づく。


昔からそうだった。


自分の選択を、

母は信用していなかった。


友人も。

進路も。

恋人も。


“あなたは間違える”という前提。


だから彼は、

感情より“安全”を選んできた。


波立たない人。

問題を起こさない人。

期待に沿う人。


でも今回は、違う。


彼女は静かだが、強い。


優しいが、依存しない。


彼を飲み込まない。


それがどれほど救いだったか。



「ちゃんとしてるよ。」


彼は言う。


少しだけ声が低い。


守るように。


母は鼻で笑う。


「ふうん。あなたがちゃんと続いた試し、ないけどね。」


冗談のようで、

冗談ではない。


胸の奥に熱が走る。


恥。

怒り。

悔しさ。


そして、恐れ。


“やっぱり無理なんじゃないか”という古い声。


でも彼は飲み込まない。


「今回は違う。」


短く。


それだけ言う。


母は一瞬黙る。


その確信に、少しだけ戸惑う。


でもすぐに視線を逸らす。


「まあ、好きにしなさい。」


投げるように。


会話は終わる。




夜。


実家の自室。


昔のままの机。

ポスターの跡。


何も変わっていない空間。


でも彼は、変わり始めている。


ベッドに座る。


胸がざわついている。


母の言葉が反芻する。


“続いた試しがない。”


確かにそうだった。


自分から離れた。


近づかれると苦しくなった。


理由も分からず。


でも今回は違う。


彼女の前で、

自分は少しずつ言葉を持てている。


逃げながらも、

戻っている。



彼は気づく。


母の前で感じる圧迫感。


それは、

“自分の感情を信じるな”という空気。


だから恋愛でも、

自分の感情を疑ってきた。


好きになるほど、

自分が信用できなくなる。


だから距離を取った。


壊れる前に。


でも今。


壊れない可能性を、

初めて感じている。



スマートフォンを手に取る。


彼女の名前を見る。


電話はしない。


今はまだ、自分で整理する。


でも、メッセージを打つ。


“今日は少し疲れました。でも大丈夫。”


少しだけ正直。


送信。


送ったあと、

深く息を吐く。


逃げなかった。


母からも。


自分からも。


そして、

この恋からも。


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