呼び出し、過去と向き合う時
ある夜。
彼のスマートフォンが鳴る。
見慣れない時間。
実家から。
胸が一瞬、固まる。
出る前に、もう分かっている。
いい知らせではない。
「お父さんが倒れたの。」
母の声は冷静だった。
でも、奥に疲労が滲んでいる。
脳梗塞。
命に別状はない。
でも入院。
精密検査。
しばらく様子を見るらしい。
彼は短く返事をする。
必要なことだけ聞く。
感情を挟まない。
それは昔からの癖だった。
電話を切ったあとも、しばらく動けない。
胸の奥に、古い重さが蘇る。
父は厳しい人だった。
愛情はあった。
でも、言葉は少なかった。
弱音は許されない空気。
期待。
無言の圧。
彼はずっと、
「ちゃんとしなければならない側」だった。
今日は彼女の部屋へ
この後向かう予定だった。
メッセージを打つ。
“今日は行けなくなりました。”
一瞬迷う。
それだけで済ませられる。
何も説明せず、距離を取ることもできる。
でも。
指が止まる。
逃げるな。
自分に言う。
“父が倒れました。今から実家に戻ります。”
送信。
短いけれど、閉じない文章。
彼女からすぐに返信が来る。
“分かりました。大丈夫?”
それだけ。
問い詰めない。
励ましすぎない。
ただ、開いている。
その余白に、彼は少し救われる。
彼は新幹線の中で考える。
父と最後にまともに話したのは、いつだったか。
仕事の話。
成果の話。
評価の話。
感情の話は、ほとんどない。
「どう思っているか」を
聞かれたことも、
言ったこともない。
もしかしたら。
自分が恋愛で逃げるのは、
弱さを見せることに慣れていないからかもしれない。
父の前で、弱音は出せなかった。
強くあることが正解だった。
そういう場所で育ってきた。
新幹線を降りて病院に向かう間、
どんな言葉をかけるべきか迷い続けた。
懐かしい風景の中で、
子ども時代の自分を思い出す。
父の背中ーー
広く大きな背中を見ながら、
ただ後ろをついて歩いていた。
言葉が出てこず
自分だけが気まずい思いをしているような時間。
父は何を思っていたのだろう。
もし自分が素直になれていたら
手を繋いでほしいと言えただろうか。
拒まれることを考えて、
言えなかった小さな少年。
今の自分ならばーー
傷つくことから逃げずに
思ったことを言える気がする。
もう逃げたくない。
気持ちも隠したくない。
ただ、真っ直ぐに伝えたい。
病室。
父は眠っている。
思ったより小さい。
思ったより老いている。
強い人だったはずなのに。
時間は容赦がない。
彼はベッドの横に立つ。
何も言えない。
怒りもない。
感謝も、うまく言語化できない。
ただ、
間に合ってよかった、と思う。
その夜、彼女からメッセージ。
“ちゃんと寝てくださいね。”
それだけ。
彼は画面を見つめる。
安心する。
同時に、怖くなる。
もしこの人を失ったら。
父との距離のように、
取り返しがつかなくなったら。
彼は気づく。
過去と向き合うのは、
父と和解することだけじゃない。
「感情を言わない自分」と決別すること。
その日は、
実家には帰らず、
病院の近くのホテルに泊まった。
一瞬、
母の顔がよぎる。
胸の奥がくっと重苦しくなる。
今は父のことだけに集中しよう。
そう言い聞かせて
何も考えないよう眠りについた。
翌日。
父が目を覚ます。
弱い声で言う。
「来たのか。」
それだけ。
昔と変わらない。
でも、
その短さの中に、ほんの少し安堵がある。
彼は初めて思う。
言わなければ、伝わらない。
待っていても、時間は止まらない。
恋も。
家族も。




