重くなる心(彼女視点)
帰り道。
並んで歩く。
手は繋いでいる。
空気は穏やか。
でも彼女の胸の奥に、薄い膜のような違和感が残っている。
消えない。
怒りではない。
不安でもない。
もっと静かなもの。
ざら、とした感触。
“結婚を考えた人。”
その言葉が、ゆっくり反芻される。
自分も今、同じ場所にいるのだろうか。
それとも、まだ途中なのだろうか。
比べていないと言われた。
分かっている。
嘘ではない。
それでも。
「一度、本気で差し出した人がいる」
その事実は、思ったより重い。
彼の横顔を見る。
穏やか。
柔らかい。
今は自分に向いている視線。
でもその視線は、
一度、別の人にも向いたのだ。
胸が、少しだけ締まる。
彼女は自分に驚く。
ああ、嫉妬している。
静かな嫉妬。
責める気はない。
問い詰める気もない。
それでも、
“彼の初めて”ではないことに、
ほんの少しだけ寂しさが滲む。
夜。
一人になったとき。
彼女は正直に思う。
あの人は、どんな人だったのだろう。
自分より可愛かった?
優しかった?
思考が止まらない。
そして、はっとする。
比べたいわけじゃない。
でも、知りたくなる。
それが人間。
彼女は深く息を吐く。
怖いのは、過去じゃない。
“彼がまた失うことを恐れている”
その事実。
自分がいくら安定しても、
彼の中の傷は消えない。
そこに、自分は触れている。
でも同時に思う。
昨日、彼は逃げなかった。
気づき、言葉にし、謝った。
あれは前進だ。
過去を持っているからこそ、
今がある。
頭では分かっている。
それでも心は、少しだけ揺れる。
彼女は静かに自問する。
私は、彼の今を見たいのか。
それとも、
彼の全部を独占したいのか。
答えは分かっている。
今を選びたい。
でも、
独占したい気持ちが
ゼロではないことも認める。
その夜。
彼から短いメッセージ。
「今日はありがとう。」
それだけ。
余計な言葉はない。
でも、そのシンプルさに
彼女のざらつきが、少し溶ける。
今は、自分に向いている。
それでいい。
彼女は思う。
嫉妬できるほど、
私はこの人を好きなんだ。
それは弱さではない。
深さだ。
でも同時に、
彼に差し出していた安定が崩れそうになる。
重く、深く、沈んでしまいそうになる。
これ以上考えてはいけない。
そう言い聞かせて、
彼女は部屋の明かりを消した。




