変化は少しずつ
キスをしてから、何かが劇的に変わったわけではない。
朝は来るし、仕事もある。
会えば笑うし、並んで歩く。
むしろ、静かだ。
安定している。
それが逆に、彼を少しだけ戸惑わせる。
彼は思う。
こんなに穏やかでいいのか。
恋はもっと、揺れるものじゃなかったか。
不安や駆け引きがあって、
追いかけたり、逃げたりして。
でも今は違う。
彼女は追わない。
疑わない。
試さない。
ただ、隣にいる。
その安定が、嬉しい。
同時に、怖い。
なぜなら――
失う想像が、より現実味を帯びるから。
大切なものができると、
それを失う未来まで想像してしまう。
これは彼の癖だ。
回避の名残。
深くなる前に距離を取れば、傷は浅い。
でも今回はもう遅い。
もう、浅くはない。
ある夜。
彼女からメッセージが届く。
「今日、少し疲れちゃった。」
弱音ではない。
ただの共有。
でも彼の胸に、重さが落ちる。
支えなければ。
励まさなければ。
彼氏として正しくあらねば。
その“ねばならない”が顔を出す。
彼はスマホを見つめながら、自分に気づく。
違う。
彼女は依存していない。
勝手に背負おうとしているのは自分だ。
彼女は自分で立てる人だ。
それを知っているのに、
「必要とされたい」自分が顔を出す。
彼はゆっくりと返信する。
「今日はよく頑張りましたね。」
大げさにしない。
解決しようとしない。
「隣にはいます。」
それだけ。
送信したあと、胸が少し軽い。
全部を抱えなくていい。
全部を背負わなくていい。
一緒に立てばいい。
それがやっと、体感としてわかってきた。
数日後。
彼女はいつも通り笑っている。
自分で回復している。
それを見て彼は安心する。
同時に、少しだけ寂しい。
自分がいなくても大丈夫だと、証明された気がして。
でもすぐに気づく。
それでいい。
大丈夫な人が、自分を選んでくれている。
それは依存よりも、ずっと強い。
彼はようやく理解する。
守るとは、
相手を弱くすることではない。
相手の強さを信じたまま、
それでも隣にいること。
ある夕暮れ。
彼は彼女の手を自然に取る。
以前のような迷いはない。
「俺、ちゃんと成長してますかね。」
不安を冗談に隠さない。
彼女は少し笑う。
「してると思いますよ。」
即答だった。
そこに疑いはない。
その言葉に、彼は静かに満たされる。
失う未来より、
今この瞬間を重ねるほうが現実だと、
やっと思えるようになってきた。




