選んだ一歩
その日は特別な日ではなかった。
約束もない。
記念日でもない。
ただの、いつもの帰り道。
けれど彼の中では、少しだけ違っていた。
今日は逃げない。
今日は、迷わない。
そんな静かな決意が、朝から胸の奥にあった。
仕事が終わり、廊下で目が合う。
「お疲れさまです。」
いつもと同じ声。
でも視線はまっすぐだった。
彼女はそれに気づく。
今日の彼は、どこか整っている。
二人は並んで帰り道を歩く。
仕事の話を少しして、
途中で笑って、
また沈黙がくる。
その沈黙が、今日は少しだけ熱い。
彼は自分の鼓動を感じている。
怖い。
でも、逃げたいとは思わない。
むしろ、ここで逃げたくないと思っている。
別れ道の前で、自然と足が止まる。
いつもと同じ場所。
これまで何度も立った場所。
でも今日は少し違う。
彼は一歩だけ近づく。
彼女の目を見る。
彼女は逸らさない。
でも、急かしもしない。
ただ静かにそこにいる。
選ぶのは彼だと、知っているように。
彼は小さく息を吐く。
そして言った。
「この前の続き、してもいいですか。」
声は静かだった。
衝動ではない。
選んだ声だった。
彼女の胸がゆっくり高鳴る。
怖さはある。
でも、それ以上に信頼がある。
彼女は小さくうなずく。
言葉は出ない。
それで十分だった。
彼はそっと手を上げる。
彼女の頬に触れる。
手のひらが少しだけ震えている。
隠そうとはしていない。
そのまま、ゆっくり近づく。
急がない。
確かめるように。
唇が、触れる。
ほんの一瞬。
触れただけの、短いキス。
でもそこには、
恐れを越えた勇気と、
逃げなかった時間と、
互いを大切に思う温度が、ちゃんとあった。
離れたあと、二人とも少しだけ息を止めていた。
彼は目を逸らさない。
逃げない。
しばらく迷ったあと、ゆっくり口を開く。
「順番、ちゃんとしたくて。」
少し照れたように言う。
「……ちゃんと、好きです。」
その声は低くて、まっすぐだった。
彼女の胸の奥に、長く溜めていた何かがほどける。
彼女は小さく笑う。
安心したように。
「……やっと言ってくれましたね。」
そう言ってから、少しだけ首を振る。
「私も、好きです。」
夜は静かだった。
街灯の光の中で、二人は少しだけ近い距離に立っている。
もう前の距離には戻らない。
でも、急いで進む必要もない。
選んで、ここまで来た。
二人で。




