名前のない関係
名前のない関係
別れたあとも、
彼の手の中にはまだ温度が残っている気がした。
もちろん、もう触れてはいない。
ポケットに入れた自分の手は
いつもと同じはずなのに、
どこか落ち着かない。
さっきまで、手をつないでいた。
指を絡めたわけでもない。
腕を引いたわけでもない。
ただ、隣で歩きながら
包むように手を取っただけ。
それだけのはずなのに、
胸の奥は妙に静まらない。
あれは、どういう意味なんだろう。
彼女は逃げなかった。
手を離さなかった。
それどころか、最後は少しだけ
握り返していた。
嫌ではなかった、ということだろう。
少なくとも。
でも、それだけでいいのか。
歩きながら、彼はふと思う。
これって――
もう、恋人なんだろうか。
自分はまだ、
「好きです」
と、ちゃんと言ったことがない。
告白もしていない。
付き合おうとも言っていない。
それなのに、
昨日は抱きしめて、
今日は手をつないだ。
順番が、少し違う気がする。
彼は駅のホームで小さく息を吐く。
人の流れの中で、
一人立ったまま考える。
もし、彼女が
「ただの同僚です」
と言ったら。
自分は、何をしているんだろう。
胸の奥が少しだけざわつく。
でも同時に、別の感覚もある。
手をつないだとき、
彼女は確かにそこにいた。
逃げなかった。
戸惑ってもいなかった。
あの静かな握り方は、
拒否ではない。
むしろ、
受け取っていた。
彼は思い出す。
昨日、彼女が言った言葉。
「ちょっと疲れちゃったから、そばにいてほしい」
その言葉を思い出すと、
胸の奥がやわらかくなる。
もしかしたら彼女は、
言葉より先に
距離を許しているのかもしれない。
それでも。
彼は思う。
このままでいいのか。
曖昧なまま、
触れていく関係。
名前のない関係。
それは少しだけ、
彼らしくない。
彼は大胆なことができる人間ではない。
だからこそ、
大事なことは
ちゃんと言葉にしたい。
「好きです」
「付き合ってください」
たったそれだけの言葉が、
今は妙に重い。
もし、彼女が困った顔をしたら。
もし、距離を戻されたら。
今の関係すら
壊れるかもしれない。
その想像が、
まだ少し怖い。
でも。
今日、手をつないだとき。
彼女の手は、ちゃんと温かかった。
あの温度を思い出すと、
胸の奥で何かが静かに決まっていく。
逃げたくはない。
彼はゆっくり息を吐く。
次、
二人で並んで歩くとき。
そのときは、
ちゃんと言おうか。
「好きです」と。
ホームに電車が入ってくる。
風が吹く。
彼はまだ少し熱の残る手を
ポケットの中で握りながら、
その音を聞いていた。




