選んだ距離
仕事が終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
彼女は軽く肩を回す。
「今日は疲れました。」
独り言のように言う。
彼は横で書類をまとめながら答える。
「ミス、引きずってますか。」
彼女は少しだけ笑う。
「半分くらい。」
「半分。」
「残り半分は、もう大丈夫です。」
その言い方に、彼は一瞬だけ彼女を見る。
昨日のことを思い出す。
抱きしめた瞬間。
腕の中の温度。
あれは確かに――
必要だった気がする。
帰り道。
並んで歩く。
いつもと同じ道。
でも、少し違う。
沈黙が多い。
気まずいわけではない。
ただ、
お互い少し意識している。
彼はふと気づく。
彼女の歩幅が少し小さい。
疲れているのかもしれない。
昨日、彼女は言った。
「ちょっと疲れちゃったから、そばにいてほしい。」
その言葉を思い出す。
胸が静かに熱くなる。
触れたい。
昨日よりも、
自然に。
でも、怖さはまだある。
触れたら、
また止まらなくなるかもしれない。
それでも。
昨日、彼女は言った。
「嬉しかったです。」
その言葉が、背中を押す。
彼は少しだけ歩く速度を落とす。
彼女もそれに合わせる。
二人の手が、
ほんの少しだけ近づく。
触れてはいない。
でも、
あと数センチ。
彼の指が、少し動く。
迷う。
躊躇う。
やめようかと思う。
でも、
そのとき。
彼女の手が、
ほんのわずかに外側へ動く。
偶然のような
でも、
逃げていない位置。
彼は理解する。
隙。
許された距離。
ゆっくりと、
彼の指が彼女の手に触れる。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
触れて、
離れる。
彼女は何も言わない。
歩き続ける。
でも、
手はそのままの位置。
彼はもう一度、
今度は少しだけ確かめるように、
指先を重ねる。
彼女の手の甲。
温かい。
逃げない。
彼はそっと、
指を滑らせる。
そして、
そのまま手を取る。
握るというより、
包むように。
彼女の指が、
少しだけ動く。
そして、
ゆっくり握り返す。
二人は止まらない。
歩いたまま。
手を繋いだまま。
強く握らない。
でも、
離れない。
彼の胸の奥で、
心臓が静かに速くなる。
昨日抱きしめた時よりも
なぜか緊張する。
彼女が小さく言う。
「……手、熱いですね。」
彼は苦笑する。
「緊張してます。」
正直すぎる答え。
彼女は少しだけ笑う。
「私もです。」
沈黙。
でも、
今度の沈黙は少し甘い。
彼は思う。
昨日は衝動だった。
でも、
これは違う。
選んでいる。
ちゃんと。
彼女も思う。
この人は、
逃げない。
怖くても、
ちゃんと隣にいる。
夜道を二人は歩く。
指を絡めるわけでもない。
恋人のように見えるわけでもない。
でも、二人にとっては
これが今いちばん深い距離。
そして彼は、
ふと思う。
この手を離すとき、
たぶん少し寂しい。
その気持ちに、
自分で少し驚きながら。




