いつもより少しだけ
翌朝。
彼はいつもより少し早く職場に来ていた。
理由は特にない。
ただ――
もし彼女に会ったらどうすればいいのか、
まだ答えが出ていない。
⸻
思い出してしまう。
昨日の帰り道。
抱きしめた。
完全に勢いだった。
そのあと、
ぐいっと離れた。
あれはどう見ても不自然だ。
「……普通に接する」
小さく呟く。
それしかない。
何もなかった顔をする。
それが一番いい。
そう決めた瞬間。
廊下の向こうから
見慣れた姿が歩いてくる。
彼女。
心臓が一瞬跳ねる。
まだ朝だ。
こんなに早く会うとは思わなかった。
逃げるわけにもいかない。
彼は足を止める。
彼女も気づく。
目が合う。
ほんの一秒。
でも、
いつもより少し長い。
彼は先に口を開く。
「……おはようございます。」
声が少し低い。
落ち着こうとしている声。
彼女は一瞬だけ彼を見て、
ふっと微笑む。
「おはようございます。」
声は、いつも通り。
本当にいつも通り。
それが逆に、
彼を少し困らせる。
何も言われない。
触れられない。
昨日のことを
まるで話題にしない。
気まずいのかと思った。
でも違う。
彼女は普通に隣に立って、
書類を確認している。
沈黙。
でも、
嫌な沈黙ではない。
彼は視線を落とす。
正直に言えば、
まだ彼女の顔をまともに見られない。
思い出してしまうからだ。
昨日の距離を。
体温を。
すると。
彼女が小さく言う。
「昨日。」
彼の肩が一瞬固まる。
来た。
やっぱり触れるのか。
彼はゆっくり顔を上げる。
覚悟するように。
彼女は少しだけ首を傾げて、
静かに言う。
「ありがとうございました。」
それだけ。
責めるでもなく、
からかうでもなく、
ただ静かに。
彼は一瞬、
言葉を失う。
「……え?」
思わず漏れる。
彼女は少しだけ笑う。
優しい笑い方。
「昨日、ちょっと落ち込んでたので。」
一拍。
「嬉しかったです。」
彼の胸が、
静かに揺れる。
嫌じゃなかった。
むしろ、
嬉しかった。
その事実が、
じわじわ胸に広がる。
彼は少しだけ視線を逸らし、
小さく言う。
「……衝動でした。」
正直に。
不器用に。
彼女は首を振る。
「それでもです。」
柔らかく。
「ちゃんと伝わりました。」
その言葉に、
彼の肩の力が少し抜ける。
彼女はそれ以上何も言わない。
昨日の話は、
そこで終わり。
でも、
二人の距離は
ほんの少しだけ変わっている。
以前より、
少しだけ近い。
彼は思う。
昨日のことは、
間違いじゃなかったのかもしれない。
そして彼女も思う。
あの腕は、
きっとまた
自分を抱きしめる日が来る。
焦らなくていい。
でも、
確実に近づいている。




