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こぼれた衝動


仕事を終えて、

二人は並んで歩いていた。


特別な約束をしたわけではない。

でも最近は、こうして帰り道が重なることが増えた。


夜の空気は少し冷たい。


彼女は今日、いつもより静かだった。


昼間のことを

彼は思い出していた。


同僚からのきつい指摘。

彼女は冷静に受け止めていた。


でも――


ほんの一瞬だけ。


疲れた顔をしていた。


「今日は……」


彼が口を開く。


「少し大変でしたね。」


余計なことは言わない。

慰めすぎない。


それでも、

見ていたことだけは伝えたかった。


彼女は少し驚いたように彼を見る。


そして、

ふっと力を抜いた。


「見てました?」


「……少し。」


「恥ずかしいですね。」


そう言いながら、

小さく笑う。


でもその笑顔は、

いつもの完璧なものではなかった。


ほんの少しだけ、

弱さが混じっている。


彼の胸がざわつく。


守りたい、とは違う。


でも――


ひとりで立っている姿を見ると、

なぜか近づきたくなる。


「大丈夫ですか。」


彼はもう一度聞く。


彼女は少し考えてから、


「……ちょっと疲れちゃいました。」


と、正直に言った。


そして、続ける。


「でも大丈夫です。」


そう言って笑う。


その笑顔が、

彼の中の何かを揺らした。


強い人だと思っていた。


ひとりで立てる人だと。


でも今、

目の前にいるのは


強いまま、

少しだけ疲れている人。


彼の足が止まる。


彼女も気づいて立ち止まる。


「どうしました?」


問いかける声は、

いつもと同じ。


でも距離が、

ほんの少し近い。


彼は一瞬迷う。


触れたい。


でも――


触れてしまったら、

何かが変わる気がする。


戻れなくなる気もする。


胸の奥で、

いつもの声が言う。


やめておけ。


でも、


それより強いものが、

今日はあった。


彼は一歩近づく。


彼女は動かない。


逃げない。


ただ、彼を見る。


その目が、


「選ぶのはあなた」


と静かに言っている気がした。



次の瞬間。


彼は彼女を抱きしめていた。




衝動だった。


腕は思ったより強く回っていた。


自分でも驚くくらい、

迷いがなかった。


彼女の体が、

腕の中で一瞬だけ固まる。


でも、

押し返さない。


数秒。


たぶんそれだけ。


でも彼には

もっと長く感じた。


彼女の髪の香り。


肩の温度。


静かな呼吸。


全部が近い。



その瞬間、


我に返る。



「……っ」


彼は慌てて腕をほどく。


そして、


彼女の両肩を掴んで

ぐいっと距離を取る。


「……すみません。」


声が低くなる。


さっきまでの衝動が、

一気に引いていく。


何をしているんだ。


踏み込みすぎた。


嫌だったかもしれない。


頭の中で

言葉がぐるぐる回る。


彼は彼女を見られない。


少しだけ視線を下げる。


「その……」


言葉が続かない。


彼女は、しばらく何も言わない。


ただ、


彼を見ている。


怒っているわけでもない。


驚いているわけでもない。


ただ、


静かに呼吸を整えている。



「……びっくりしました。」


やっと出た言葉は、それだった。


でも声は、


怒っていない。


むしろ、


少しだけ柔らかい。


彼は顔を上げられない。


「本当に……すみません。」


また謝る。



彼女は小さく息を吐く。


そして、


ほんの少しだけ笑う。


「謝りすぎです。」



彼はやっと顔を上げる。


彼女の頬は、

少しだけ赤かった。



それ以上、

二人は何も言わない。


並んでまた歩き出す。


さっきまでと同じ帰り道。


でも、


さっきとは少し違う空気。


彼の胸は、

まだ落ち着いていなかった。


触れた感触が、

腕に残っている。


でも、


もう一度触れる勇気は

まだなかった。

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