静かなざわめき
次の日の午後。
仕事はいつも通り忙しい。
資料の確認。
メールの返信。
短い打ち合わせ。
特別なことは何も起きていない。
それでも彼は、
昨日のことを
何度も思い出していた。
彼女の言葉。
「そばにいてほしいです。」
そして、
肩に触れたときの
あの小さな温度。
思い出すだけで、
胸の奥が静かに揺れる。
ふと視線を上げると、
少し離れたところに
彼女の姿が見えた。
同僚と話している。
仕事の話だろう。
真剣な顔で
何かを説明している。
彼はそれを
なんとなく眺める。
それだけのつもりだった。
でも次の瞬間。
その同僚が、
少し身を乗り出した。
彼女の資料を
覗き込むようにして、
距離が近くなる。
彼女は気にしていない。
普通に説明を続けている。
ただそれだけの光景。
本当に、
それだけのこと。
なのに。
彼の胸の奥が、
わずかにざわつく。
理由はよくわからない。
嫌な感じではない。
でも、
落ち着かない。
視線を外す。
仕事に戻ろうとする。
でも――
また
そちらを見てしまう。
自分でも、
少し不思議だった。
彼は気づく。
昨日、
彼女に触れた。
彼女も
それを拒まなかった。
それだけのことなのに、
どこかで
「近くなった」と感じている。
だからなのかもしれない。
同僚が笑う。
彼女も少し笑う。
その笑顔を見た瞬間、
胸の奥が
また小さく揺れる。
――なんだろう。
この感じ。
怒りじゃない。
不安でもない。
でも、
静かに落ち着かない。
彼は
小さく息を吐く。
そしてようやく
言葉に気づく。
たぶんこれは――
嫉妬だ。
自覚した瞬間、
自分で少し驚く。
そんな感情を
持つと思っていなかった。
そもそも、
彼女は
自分の恋人ではない。
誰と話していても
何もおかしくない。
それは
よく分かっている。
それでも。
昨日
「そばにいてほしい」
と言われた声が、
胸の奥に
残っている。
そのとき。
彼女がふと顔を上げる。
目が合う。
ほんの一瞬。
彼は視線を逸らさない。
でも、
いつもより
少しだけ真剣な目だった。
彼女はそれに気づく。
一瞬だけ、
不思議そうな顔。
そして、
ほんの少しだけ
優しく笑った。
その笑顔を見た瞬間。
彼の胸のざわめきは、
少しだけ静まる。
理由は
わからない。
でも、
自分に向けられた笑顔だと
分かったから。
彼は気づく。
嫉妬は、
嫌な感情じゃないのかもしれない。
ただ、
大切に思っている
証拠。
それをまだ
彼女には言わない。
言えるはずもない。
でも、
胸の奥で
小さな確信が生まれていた。
自分はたぶん、
思っているより
彼女のことが好きだ。




