そばにいるだけで
「ちょっと疲れちゃいました。」
彼女がそう言ったとき、
彼の心臓が一瞬強く鳴った。
「そばにいてほしいです。」
その言葉が、
胸の奥に静かに落ちてくる。
断る理由なんて、
もちろんない。
でも――
彼は一瞬、
自分の手を見た。
さっきまで、
「甘えてほしい」と言ったのは
自分だ。
なのに今、
どうしていいかわからない。
「……ここで?」
少しだけ声が低くなる。
彼女は小さく笑う。
「はい。」
その笑い方は、
いつもの落ち着いたものより
ほんの少しだけ柔らかい。
強い彼女じゃない。
少しだけ、
頼っている顔。
それを見た瞬間、
彼の胸の奥で
何かが熱くなる。
慰めたい。
大丈夫だと
言ってあげたい。
できれば――
触れたい。
頭を撫でるとか、
肩に手を置くとか、
そういうことを
してみたいと思ってしまう。
でも。
それは
簡単じゃない。
彼女は
触れられることを
望んでいるのか。
それとも、
ただ
「近くにいてほしい」だけなのか。
その違いを
間違えたくない。
彼は
そういう男だった。
だから、
無理に距離を詰めない。
ただ、
彼女の隣に立つ。
それだけ。
しばらく
二人とも何も言わない。
静かな空気。
でも
気まずくはない。
彼女が
ふっと息を吐く。
「……ちょっと楽になりました。」
その言葉に、
彼は胸の奥が
じんわりと温かくなる。
何もしていない。
でも、
役に立てた気がする。
そのとき。
彼女の肩が
ほんの少しだけ揺れた。
疲れているのだと、
すぐに分かる。
その瞬間、
彼の中で
迷いが揺れる。
触れてもいいだろうか。
触れたい。
でも――
彼は小さく息を吐き、
そっと手を伸ばす。
一瞬だけ迷って、
彼女の肩に
軽く手を置いた。
ほんの一瞬。
強くもなく、
引き寄せるわけでもない。
ただ、
「ここにいます」
と伝えるくらいの
触れ方。
彼女は驚かない。
逃げもしない。
代わりに、
少しだけ
肩の力を抜いた。
それだけで、
彼の心臓は
さっきより速くなる。
触れているのは
ほんの少しの距離。
でも彼にとっては、
とても近い。
「……大丈夫です。」
彼女が言う。
「あなたがいると。」
小さな声。
でも、
はっきり届く。
彼は
すぐに返事ができない。
胸の奥が、
静かに騒いでいるから。
嬉しい。
同時に、
怖い。
でも――
離したくないとも思う。
結局、
彼は短く答える。
「……よかったです。」
それだけ。
それ以上言うと、
声が甘くなりそうだった。
彼女は
それを聞いて
少し笑う。
何も言わない。
でも、
彼の手の下で
肩の力はもう抜けていた。
その瞬間、
彼は思う。
慰めたいと思ったのは
本当だった。
でも今は、
それだけじゃない。
もっと近くにいたい。
もっと触れたい。
もっと――
知りたい。
その気持ちを
まだ言葉にはしない。
でも、
胸の奥で
確かに大きくなっていた。




