甘えていい
その日は、少しだけ空気が重かった。
忙しい日だった。
小さなミスが重なり、
彼女は珍しく作業の手を止めていた。
表情はいつもと変わらない。
声も落ち着いている。
でも――
彼にはわかる。
ほんのわずかに、呼吸が浅い。
「……大丈夫ですか。」
気づけば声をかけていた。
以前より、ずっと自然に。
彼女は顔を上げて、
小さく笑う。
「大丈夫ですよ。」
その声は穏やかだった。
いつもの彼女だ。
落ち着いていて、
自分で立っていて、
簡単には崩れない人。
だから彼は――
一瞬、言葉を飲み込む。
きっとこの人は大丈夫だ。
そう思えば、
踏み込まなくて済む。
彼女は強い。
そう思っていれば、
安心できる。
……でも。
胸の奥に、
小さな違和感が残る。
強い。
そう思うたびに、
どこかで
自分が楽をしている気がした。
彼女はずっと、
自分の足で立っている。
弱音をぶつけることもなく、
誰かに寄りかかることもない。
それは、彼が尊敬しているところだった。
でも――
ふと気づく。
自分はその強さに
甘えていたんじゃないか、と。
彼女は大丈夫。
彼女は強い。
だから自分は
無理に踏み込まなくていい。
傷つけるかもしれない怖さから
逃げなくてもいい。
それは、優しさじゃない。
ただの――
逃げだ。
彼は静かに息を吐く。
そして、もう一度
彼女を見る。
彼女はいつも通り
資料を見ている。
でも、
ほんの少しだけ
肩が落ちている。
彼は立ち上がる。
そして、彼女のデスクの横に
静かに立った。
彼女が顔を上げる。
少しだけ、驚いた顔。
彼は少し迷う。
言葉を選ぶのは、
昔から得意じゃない。
こういうとき、
上手い言い方は思いつかない。
でも――
大事なことは
遠回しにしたくなかった。
「……あの」
声が少し低くなる。
「無理しなくていいです。」
そこまで言って、
彼は一度だけ首を振る。
違う。
それじゃ足りない。
彼は少しだけ視線を落とし、
それからもう一度彼女を見る。
「……甘えてください。」
短い。
まっすぐすぎる言葉。
彼女は、
一瞬だけ目を丸くする。
予想していなかった言葉だった。
彼は続ける。
少しだけ不器用に。
「……その」
「自分、たぶん」
言葉が詰まる。
それでも、止めない。
「強い人だって思って」
「安心してたところ、あります。」
静かな告白だった。
自分の弱さを
そのまま差し出すような言葉。
「でも」
彼は続ける。
「強いとか関係なくて」
「……自分に甘えてほしいです。」
沈黙が落ちる。
長くはない。
でも、
空気が少しだけ揺れる。
彼女は、
ゆっくり息を吐いた。
そして――
ふっと笑う。
「……かわいい」
小さく、そう呟いた。
彼は一瞬固まる。
完全に想定外だった。
彼女はくすっと笑う。
「嬉しいです。」
そう言って、
少しだけ視線を落とす。
「私、たぶん」
「強く見えるかもしれないけど」
指先でペンを転がしながら、
ゆっくり言う。
「本当は」
少しだけ、照れたように笑う。
「……ちょっと疲れちゃいました。」
その言葉は、
今日初めて聞く
彼女の弱音だった。
彼の胸が
静かに揺れる。
彼女は続ける。
声は穏やかだ。
無理に強がっているわけでもない。
ただ、
正直な温度。
「だから」
少しだけ首をかしげる。
そして、
彼を見る。
「今日は、ちょっとだけ」
ほんの少しだけ、
照れた笑顔。
「そばにいてくれますか?」
彼はすぐには答えない。
言葉が出ない。
ただ、
ゆっくり頷く。
それだけ。
でも彼女は、
それで十分だった。
二人の間に流れる空気は、
前よりも
少しだけやわらかく、
少しだけ近い。
守るでもなく、
背負うでもなく、
ただ――
隣にいる。
それが、
今の二人にいちばん
ちょうどいい距離だった。




