強さのかたち
仕事が忙しくなった。
特別な出来事があったわけではない。
ただ、案件が重なり、締め切りが重なり、
部署全体の空気が少しだけ張りつめる。
二人も例外ではなかった。
朝の「おはよう」はある。
視線も合う。
でも、それ以上の時間はなかなか取れない。
それでも不思議と、
距離が遠くなった感じはしなかった。
同じ場所で、
同じ忙しさの中にいる。
それだけで、
互いの存在が小さな支えになっているのがわかるから。
ある日の午後。
彼女は小さなミスをした。
致命的ではない。
修正もできる。
でも、連日の疲れの中では
少しだけ心に引っかかる出来事だった。
会議室で指摘を受け、
彼女は静かに頭を下げる。
感情的にならない。
言い訳もしない。
ただ、事実を受け止めて
「修正します」と答える。
その姿を、
彼は少し離れた席から見ていた。
強い。
やっぱりそう思う。
でも同時に、
胸の奥がわずかにざわつく。
会議が終わり、
人がばらばらに部屋を出ていく。
彼は一瞬迷った。
声をかけるか。
それとも、そっとしておくか。
彼女はきっと
自分で立てる人だから。
それでも――
足は止まった。
「……大丈夫ですか。」
短い言葉。
余計な慰めはない。
でも、見ていたという気配だけは残る。
彼女は少し驚いた顔をして、
それから小さく笑う。
「大丈夫です。」
いつもの声。
落ち着いた、いつもの彼女。
でもそのあと、
ほんの一瞬だけ言葉が止まった。
「……本当は」
小さく続きかけて、
そこで止まる。
彼は思わず視線を上げる。
彼女はすぐに首を振った。
「いえ、やっぱり大丈夫です。」
さっきと同じ笑顔。
でも彼にはわかった。
今、
何かを飲み込んだ。
沈黙が少しだけ落ちる。
彼は言葉を探す。
慰めるのは違う気がする。
励ますのも、きっと違う。
彼女は
そういう言葉を求める人ではない。
それでも――
何も言わずに終わらせたくはなかった。
「……無理してないなら」
彼はゆっくり言う。
「それでいいと思います。」
うまく言えた気はしない。
でも嘘はなかった。
彼女は少しだけ目を丸くして、
それからやわらかく笑った。
「はい。」
その返事は、
さっきより少しだけ素直だった。
そのあと二人は
それぞれの席に戻る。
会話はもうない。
忙しさは変わらない。
仕事も山のまま。
それでも――
さっきの一瞬が、
胸の奥に残っていた。
彼はパソコンの画面を見ながら思う。
彼女は強い。
自分がいなくても、
ちゃんと立てる人だ。
だからこそ――
さっき飲み込んだ言葉が、
頭から離れない。
「……本当は」
あの続きを、
少しだけ聞いてみたかった。
彼女もまた、
資料を見ながら小さく息をつく。
本当は、
少しだけ
「疲れました」と言いたかった。
ほんの少しだけ、
甘えたかった。
でも――
まだ早い気がした。
彼はきっと、
受け止めようとしてしまう。
そしてそれは、
彼をまた苦しくさせるかもしれない。
だから今日は、
言わない。
夕方。
ふと顔を上げると、
少し離れた席で彼が仕事をしている。
真剣な横顔。
ときどき、
こちらを見ている気配。
それに気づいて、
彼女はほんの少しだけ笑う。
大丈夫。
今日は、これでいい。
強がりではない。
ただ、
隣にいる人が
ちゃんと隣にいる。
それだけで、
思っていたより心は静かだった。




