沸騰する温度
翌日。
朝から、落ち着かない。
仕事は山積み。
本来なら、余計なことを考えている暇はない。
それでも、
頭の奥に昨日が残っている。
――帰りたくない。
言わなければよかったのか。
固すぎた返信は、
逆に距離を作ったのではないか。
「ゆっくり休んでください」って何だ。
思い出すたび、
胸の内側がざわつく。
内面は、完全に沸騰している。
なのに。
「この資料、確認お願いします。」
「午後の会議、時間変更です。」
淡々と応じる声は、
いつも通り。
むしろ少し低い。
冷静に見える。
落ち着いているように見える。
自分でも驚くほど、外面は整っている。
午後。
廊下の角を曲がったところで、
彼女と鉢合わせる。
二人きり。
一瞬だけ、空気が変わる。
彼女が、少し微笑む。
「昨日は、ありがとうございました。」
静かな声。
仕事のトーン。
でも、やわらかい。
胸の奥が、跳ねる。
“昨日”という言葉だけで
体温が上がる。
それでも彼は、頷く。
「こちらこそ。ありがとうございました。」
完璧な敬語。
完璧な距離。
彼女はそれを見て、
ほんの少しだけ目を細める。
そして続ける。
「また……二人で、休日に出かけたいです。」
さらっと。
でも、逃げ道のない言い方。
心臓が、強く鳴る。
溶ける。
一瞬で。
昨日の後悔も、不安も、
全部どうでもよくなる。
「……俺も」
甘い声が、勝手に出る。
しまった、と思う。
声が低くなる。
仕事中のそれじゃない。
彼は、彼女の顔が見られない。
視線は、わずかに足元へ落ちる。
床の模様がやけに鮮明だ。
「また、行きましょう。」
やっと続ける。
平静を装う。
でも、耳が熱い。
彼女は何も追及しない。
ただ、
「はい。」
と頷く。
それだけで十分だと知っているように。
二人はそれぞれの持ち場へ戻る。
歩き出したあと、
彼は一度だけ深く息を吐く。
溶けたまま、
なんとか形を保っている。
忙しい一日が始まる。
電話。
会議。
数字。
締切。
立て続けに押し寄せる。
それでも。
胸の奥に、
小さな支点ができている。
また出かけたい、と言ってくれた。
それだけで、
踏ん張れる。
同じ頃、
彼女もまた、静かに資料を整えている。
顔はいつも通り。
でも指先が、少しだけ軽い。
互いに見せない。
言いすぎない。
触れすぎない。
それでも、
存在が励みになる距離。
次の休日まで、あと少し。
今日も、逃げない。
その先に、
また並んで歩く時間があると
知っているから。




