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帰りたくない、言えた本音

日が傾きはじめる。


公園の影が長く伸び、

ベンチの足元をゆっくり飲み込んでいく。


どちらからともなく、

時計を見る。


同時だった。

視線が合う。


そして、少しだけ笑う。


「……そろそろですね。」


彼女が言う。


その声が、ほんのわずかに惜しそうで。

彼の胸がきゅっと締まる。


「はい。」


頷く。


でも、立ち上がらない。

沈黙が落ちる。


さっきまで心地よかった静けさが、

今は少しだけ切ない。


帰らなきゃいけない。


分かっている。

でも、まだ帰りたくない。


彼は、彼女の手の中の紙袋を見つめる。


今日買った本。

彼女が選んだ一冊。


「それ、面白そうですね。」


時間を引き延ばすみたいに言う。


彼女は微笑む。


「読み終わったら、貸します。」


「……本当ですか。」


少し嬉しそうな声がでる。


「その代わり、感想ちゃんと聞かせてください。」


「それは、逃げられませんね。」


軽く言ったはずなのに。


“逃げる”という言葉が、

妙に引っかかる。


彼は一度、深く息を吸う。


「今日は……」


言葉が止まる。


言いたいことが多すぎて、

うまく形にならない。


楽しかった。

嬉しかった。

ずっと見ていたかった。


全部、本当。


「楽しかったです。」


やっと出たのは、

一番無難な言葉。


でも、声が少し震えている。

彼女はそれを聞き逃さない。


「私もです。」


すぐに返す。

迷いのない声。


立ち上がる。

並んで歩き出す。


さっきより、距離が近い。


触れないけれど、

触れたい距離。



駅が見えてくる。


人の流れが増える。

終わりが、形を持ち始める。


彼の足が、ほんの少しだけ遅くなる。

無意識に。


彼女も、それに気づく。

気づいて、歩幅を合わせる。


改札の前。


ここで、別れる。


分かっているのに、

誰も「じゃあ」と言わない。


彼は、彼女を見る。


今日何度も見たはずなのに、

まだ足りない。


柔らかい光の中の横顔。

笑うときに少し下がる目尻。


全部、焼き付けたい。



「……帰りたくない。」



気づけば、声になっていた。


小さく。

でも、誤魔化さない。


言った瞬間、胸が強く鳴る。


彼女は一瞬だけ目を丸くする。


それから、

ふっと、笑う。


柔らかく。


責めない、からかわない。

ただ、受け取る笑顔。


「ふふ」


小さな吐息のような笑い。


そして、


「私もです。」


迷いなく。


その一言で、

彼の中の何かがほどける。


強く抱きしめたい衝動が、

一瞬、理性を越えそうになる。


でも越えない。


まだ、越えない。


「また、すぐ会えますか。」


今度は願いの形。


彼女は頷く。


「はい。」


そして、少しだけ付け足す。


「次は、もう少し長く。」


それだけで十分だった。


帰らなきゃいけない。


胸の奥に広がる熱が、

切なさを溶かしていく。



改札を通る前。


彼女がふと振り向く。


「今日は逃げませんでしたね。」


少しだけ、いたずらっぽい目。


彼は、笑う。


「あなたがいたので。」


その言葉に、

彼女の足が一瞬止まる。


でも今度こそ、本当に時間切れ。


小さく手を振る。

彼も、振り返す。


離れていく背中。

見えなくなるまで、視線を外せない。


胸が痛いくらい、名残惜しい。


でも――


さみしさの奥に、確かな安心がある。


終わりじゃない。

これは、続きのある別れ。



改札を抜ける直前、

彼女は振り向かない。


振り向けば、

戻ってしまいそうだから。


彼も、立ち止まらない。


それでも、


ポケットの中の指先が

まだ落ち着かない。


触れなかった距離が、

今日いちばん残っている。


電車が動き出す。


窓に映る自分の表情は、

少しだけやわらいでいた。


理由は、確かめなくてもわかっている。



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