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平静のふりができるなら


駅前のカフェは、思っていたより静かだった。


窓際の席に向かい合って座る。


テーブルを挟めば、

距離はちょうどいい。


触れなくて済む距離。


彼はそれに、少しだけ安心する。


「何にしますか。」


メニューを開きながら、声はいつも通りを意識する。


落ち着いて。

普通に。


今日は特別じゃない、という顔で。


「カフェラテにします。」


彼女が答える。


仕事のときと同じ柔らかい声。


でも私服のせいか、

印象が少し違う。


その違いを、なるべく見ないようにする。



飲み物が届く。


湯気が上がる。


会話は穏やかに始まる。


最近読んだ本の話。

仕事であった小さな出来事。


彼はきちんと相槌を打ち、

質問もする。


ちゃんとしている。


冷静だ。


そう自分に言い聞かせる。


でも。


彼女が笑うたび、

視線が止まる。


カップを持つ指先。

ストローに触れる唇。

目尻のやわらかな線。


こんなところ、

今まで意識していなかった。


いや、してはいけないと思っていた。


「どうしました?」


また、気づかれる。


彼は一瞬だけ遅れて瞬きをする。


「いえ」


視線をカップに落とす。


心拍が少し速い。


落ち着け。


まだ平静だ。


彼女がふと、

テーブルの向こうから身を乗り出す。


「その本、面白いですか?」


彼の手元に置いてあった文庫本を指さす。


距離が、少し縮まる。


彼女の香りが、かすかに届く。


一瞬、呼吸が止まる。


「……ええ、まあ」


声がわずかに低くなる。


自分でも分かる。


平静のふりが、少し揺れた。


店を出るころには、

彼の中の静けさはもう薄くなっていた。


並んで歩く。


さっきより自然に近い。


意識しないようにしていたのに、

むしろ意識している自分に気づく。


「このあたりに書店がありますよ。」


彼女が言う。


「行きますか。」


即答してから、

少しだけ早かったと気づく。


彼女は気づいていないふりで、微笑む。


書店の中は、静かで落ち着いている。


背表紙が並ぶ通路。


彼女が棚の前で立ち止まる。


彼はその少し後ろに立つ。


本を見るふりをしながら、

横顔を見てしまう。


真剣に文字を追う目。

指でページをめくる仕草。


仕事中よりも、柔らかい。


そして、近い。


「これ、好きそうですね。」


彼女が一冊抜き取る。


振り向く。


その瞬間、距離が思ったより近くて、

彼は息を飲む。


冷静でいようとしたはずなのに。


胸の奥が、はっきり熱い。


「……あなたは?」


声が少しだけ、素に戻る。


彼女は照れずに答える。


「私はこっちが気になっています。」


並んで立ち、

同じ棚を覗き込む。


肩が、ほんのわずかに触れる。


離れない。


どちらも、離れない。


彼は気づく。


平静を装う余裕が、もうない。


会えて嬉しい。


隣にいるのが嬉しい。


ちゃんと、好きだと思っている。


その感情が、

抑えるより先に、内側から広がってくる。


「……今日は、なんだか」


言いかけて、止まる。


彼女が見上げる。


「なんですか?」


彼は少しだけ笑う。


「楽しいですね。」


それは本音だった。


冷静でも、取り繕いでもない。


ただ、溢れた言葉。


彼女はやわらかく笑う。


「私もです。」


その一言で、

胸の奥が決定的にほどける。


もう、誤魔化せない。


この時間を、

終わらせたくないと思っている。


レジへ向かう。


それぞれ一冊ずつ、本を持つ。


並んで会計を待つ時間さえ、

愛しいと思ってしまう。


彼は静かに息を吸う。


もう平静のふりは、

きっと長くは続かない。


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