触れない距離の先
「……じゃあ、行こうか。」
彼のその一言で、
時間がゆっくりと動き出す。
並んで歩き出す。
触れない距離。
でも、昨日までより確実に近い。
人通りは多い。
肩がぶつかりそうになるたび、
どちらともなく少しだけ距離を測る。
避けるわけじゃない。
ただ――
ぶつかる理由を探していないだけ。
最初の会話は、ぎこちない。
「電車、混んでた?」
「うん、少しだけ。」
たったそれだけなのに、
声を出すたび胸が鳴る。
彼は気づいている。
彼女の歩幅が、
ほんの少し自分に合わせられていること。
彼女も気づいている。
彼が人混み側を自然に歩いていること。
言葉にしない優しさが、
静かに積み重なっていく。
横断歩道で立ち止まる。
赤信号。
人が前に詰め、
距離が一瞬だけ縮まる。
彼女の袖が、
彼の手の甲にかすめた。
本当に、わずかに。
それだけなのに、
心臓が強く跳ねる。
離れる理由はない。
でも、掴む勇気もない。
その中途半端さが、
今日はやけに愛しい。
「寒くない?」
彼が言う。
とっさに出た言葉。
彼女は少し驚いて、
それから笑う。
「うん。大丈夫です。」
そう言いながら、
ほんの少しだけ彼のほうへ寄る。
触れてはいない。
でも、さっきより近い。
彼はそれに気づきながら、
何も言わない。
言ったら壊れそうで。
信号が青に変わる。
歩き出す。
今度は、
自然に歩幅が揃う。
目的地までの道は、
思っていたより短い。
彼は、
何か特別なことを言わなければいけない気がしていた。
でも。
隣を見る。
彼女は、
穏やかな顔で前を向いている。
急いでいない。
試してもいない。
ただ、隣にいる。
その事実が、
胸の奥をあたためる。
ふいに、彼女が立ち止まる。
「……ねえ」
呼ばれて、彼も足を止める。
「今日、来てくれてありがとう。」
不意打ちだった。
彼は一瞬、言葉を失う。
来ると決めたのは自分だ。
でも――
それを“ありがとう”と言われると思っていなかった。
「……うん。」
うまく返せない。
けれどその声は、
ちゃんと柔らかい。
次の瞬間。
彼は、ほんの少しだけ迷ってから――
指先を動かす。
触れるつもりはなかった。
でも、気づけば。
彼女の小指に、
自分の小指がそっと触れていた。
絡めるわけでもない。
握るわけでもない。
ただ、触れただけ。
時間が止まる。
彼女は視線を落とし、
小さく息を吸う。
離れない。
逃げない。
その代わり、
ほんの少しだけ力が返ってくる。
小指と小指。
それだけで、
世界が静かになる。
彼は思う。
完璧じゃなくていい。
強くなくてもいい。
この距離を、
ちゃんと守りながら進めばいい。
彼女も思う。
急がなくていい。
証明しなくていい。
いま触れている温度が、
嘘じゃないと分かるから。
やがて、どちらからともなく
そっと手を離す。
大げさにしない。
けれど――
もう“触れない距離”ではなかった。
並んで歩き出す。
今度は、
ほんの少しだけ自然に近い。
言葉は少ないまま。
でも胸の奥には、
確かな温度が灯っている。
今日という日は、
まだ始まったばかり。
それでもきっと――
忘れられない一日になると、
ふたりとも、もう分かっていた。




