伝えたくても送らない夜
彼女は部屋の明かりをつけても、
まだ外の空気が残っている気がした。
コートを脱ぎ、
椅子の背にかける。
それだけなのに、
胸が少し落ち着かない。
今日の会話を思い返す。
特別な言葉はなかった。
約束も、曖昧なまま。
それでも――
確かに前より近づいた。
その感覚だけが、
静かに残っている。
彼女はバッグを置いたまま、
しばらく動かなかった。
本当は、もっと喜びたかった。
「嬉しい」と
ちゃんと顔に出したかった。
昼じゃない時間を望んでくれたこと。
次が生まれたこと。
どれも、思っているより
ずっと大きな意味を持っている。
でも――
それを見せたら、
彼を急かしてしまう気がした。
だから、
小さく頷くだけにした。
「うん」
あの一言の中に、
どれだけの気持ちを押し込めたのか、
自分でも分からない。
スマートフォンの画面が、
静かに光る。
連絡を送りたい気持ちはある。
でも、送らない。
今日の一歩を、
そのままにしておきたいから。
同じ頃、
彼もまた立ち止まっていた。
部屋に戻り、
ようやく息を吐く。
誘えたこと。
断られなかったこと。
あの「うん」が
思っていたよりやわらかかったこと。
遅れて、実感が広がる。
嬉しい。
――でも同時に、怖い。
ここまで来たら、
もう後戻りはできない気がする。
それでも、
離れたいとは思わなかった。
彼は気づいている。
彼女が、
踏み込みすぎないようにしてくれていること。
もっと笑えたはずの瞬間で、
静かに頷くだけに
とどめてくれたこと。
その優しさに救われながら、
そうさせているのも自分だと知っている。
机の上のスマートフォンを、
何度も見る。
送るか。
やめるか。
指先が落ち着かない。
それでも今日は、送らない。
あの時間を、
壊したくないから。
離れた場所で、
同じように眠れない夜。
言葉にはしない。
けれど、
同じ方向を向き始めている。
まだ触れない距離のまま。
それでも確かに――
近づいている。




