何も壊れなかった日
目覚ましより少し早く、
彼は目を開けた。
よく眠れたわけでも、
眠れなかったわけでもない。
浅い波の上を、
ゆっくり漂っていたような夜。
天井を見つめながら、
昨日を思い出す。
言い過ぎなかったか。
距離を詰めすぎなかったか。
それでも――
後悔はなかった。
胸に残っているのは、
あの小さな返事。
「うん」
短いのに、
不思議なくらい温度があった。
彼女もまた、
同じ頃に目を覚ましていた。
カーテンの隙間から入る光が、
やけにやさしい。
スマートフォンに通知はない。
分かっていた。
きっと来ないと。
それでも、
ほんの少し期待していた自分に気づき、
小さく息を吐く。
――でも。
残念ではなかった。
送ってこなかったことが、
むしろ彼らしいと思えたから。
焦らない人。
壊さない人。
昨日の時間を、
そのままにしてくれた人。
会社の入口が見えたとき、
彼の足がわずかに遅くなる。
会えるかもしれない。
会えないかもしれない。
それだけで、
心臓が静かに騒ぐ。
自動ドアの前で呼吸を整えた、その瞬間。
視線が重なった。
彼女だった。
ほんの一瞬、時間が止まる。
驚きも、言葉も、
間に合わない。
先に動いたのは彼女。
小さく、口元がゆるむ。
昨日より、
ほんの少しだけ近い笑顔。
「おはよう。」
特別な意味はないはずの言葉。
それなのに、
まっすぐ胸に届く。
「……おはよう。」
声は少し掠れていた。
緊張している。
それでも、逃げたいとは思わない。
ここに立てていることが、
少し嬉しい。
並んで歩く。
触れない距離。
でも遠くない距離。
壊さなかった夜が、
この朝を支えている。
その日は、本当に何も起きなかった。
特別な会話も、
ふたりきりの瞬間もない。
ただ同じ空間で、
同じ時間を過ごしただけ。
彼は一度だけ、
画面越しに彼女を見る。
昨日と同じ。
でも、もう昨日ではない。
それだけで、
胸の奥が温かくなる。
彼女もまた、
ふと視線を上げる。
目は合わない。
それでも――
同じ空気の中にいることが、
不思議と落ち着いた。
近づきたい気持ちはある。
もっと話したい気持ちも。
でも今日は、出さない。
昨日、時間を守ってくれた彼に、
今度は自分が応えたいと思ったから。
昼休み。
席を立つタイミングが、
ほんの少し重なる。
それでも声はかけない。
歩く速さをわずかに変え、
結局は別々の方向へ向かう。
それでいいと、
ふたりとも分かっている。
午後も静かに過ぎていく。
言葉は少ないのに、
距離は遠くならない。
むしろ――
同じ場所に立っている感覚が、
ゆっくりと深まっていく。
定時が近づく。
彼は一度だけ迷う。
声をかけるか。
今日はこのままにするか。
胸にあるのは焦りではない。
大切にしたい、
その気持ちだけ。
そして結局、何も言わない。
彼女も、それに気づいている。
気づいて、少しだけ安心する。
今日はまだ、ここまででいい。
進まないことは、
後ろに下がることじゃない。
もう分かっているから。
帰り道。
空は朝より、
少しだけやわらかい色をしていた。
今日一日、
何もなかった。
でも――
何も壊れなかった。
それだけで、
十分意味のある一日だった。




