なくしたくない、と言えた日
店内は昼休みの声で満ちていた。
食器の触れ合う音。
小さな笑い声。
店員の呼ぶ声。
どれも特別じゃない、いつもの風景。
けれど彼にとっては、
少しだけ現実味が薄い。
向かいに座る彼女だけが、
やけにはっきりしていた。
「ここ、久しぶりに来ました。」
彼女がメニューを閉じる。
何気ない一言。
重さも意味もないはずの言葉。
それなのに、
胸の奥の緊張がわずかにほどける。
「……俺もです。」
まだ少し硬い声。
それでも昨夜より、確実に前にいる。
料理を待つ時間。
会話は途切れがちで、
沈黙も多い。
けれど逃げたくはならない。
沈黙が怖いのではなく、
壊すことのほうが怖い。
そんな静けさ。
グラスの中の気泡が、
ゆっくりと浮かび上がる。
彼はその動きを目で追いながら、
胸の奥の言葉を探す。
昨夜の自分なら、黙っていた。
今朝の自分でも、きっと。
それでも――
ここまで来た。
「……昨日、」
今度は止めない。
彼女が顔を上げる。
ただ、続きを待つ。
「……帰ってから、少し考えました。」
整っていない言葉。
けれど本当の順番で出てくる。
「怖いのは、変わらないです。」
正直すぎる告白。
それでも今回は、
そこで終わらなかった。
「……でも」
一拍。
目をそらさない。
「……なくしたくない、とも思いました。」
言い終えた瞬間、
胸の奥が静かに震える。
大きな告白ではない。
約束でもない。
ただ、逃げなかった本音。
彼女はすぐに返さない。
驚きも、喜びも、強くは見せない。
ただ静かに、
その言葉を受け取る。
「……うん。」
小さな頷き。
責めない。
確かめない。
そのまま置いてくれる。
その瞬間、
彼の中で何かがほどけた。
劇的ではない。
けれど確かに、
一人ではなくなった感覚。
料理が運ばれる。
湯気が立ち、
現実が戻る。
二人は「いただきます」と言い、
箸を取る。
さっきの言葉には、もう触れない。
けれど沈黙は、
もう冷たくない。
ありふれた昼食。
その下に、
小さな変化が静かに流れている。
怖さも不安も、
まだ消えてはいない。
それでも二人は――
同じ方向を見始めていた。
店を出ると、
外の空気が少しだけ冷たい。
並んで歩く。
触れそうで、触れない距離。
けれど昨日までとは違う。
言葉にしなくても、
続いている感覚。
交差点の手前で、
二人は同時に足をゆるめる。
まだ一緒にいたい。
でも引き止める理由はない。
その、曖昧な時間。
彼は小さく息を吸う。
「……あの」
彼女が足を止める。
「また――」
一瞬、詰まる。
「……今度、昼じゃない時間でも。」
不器用な誘い。
けれどそこには、
はっきりした願いがあった。
彼女の目がわずかに揺れる。
驚きと、嬉しさと、
ほんの少しの不安。
「……うん」
やわらかな頷き。
大きな約束ではない。
形もまだ曖昧。
それでも確かに――
次が生まれた。
信号が青に変わる。
二人は歩き出す。
さっきより、
ほんの少し近い距離で。
胸の奥に、
静かな灯りがともっている。
名前をつけるには、まだ早い。
けれどきっと――
これは、
始まりにいちばん近い光だった。




